アリ・ムハヤット・シャー・ダリ・アチェ(英語: Ali Mughayat Syah、インドネシア語: Ali Mughayat Syah dari Aceh、? - 1530年8月7日)は、スマトラ北部(現在のインドネシア共和国スマトラ島のアチェ特別州)のアチェ王国(アチェ・スルタナット)の初代スルタンであり、1514年頃から同30年に亡くなるまで統治した。アチェの中心地の最初の支配者ではなかった[注釈 1]ものの、王国の創設者とみなされている。その治世は、マラッカ海峡での政治的・経済的覇権をめぐるポルトガルとの長い闘争の始まりを見たものの、アリに関する記録は不十分であり、さまざまなアチェ人、マレー人、ヨーロッパ人による記述から埋め合わせる必要がある。
アチェ王国がポルトガル人と直接接触したのは、1519年にガスパル・ダ・コスタ(Gaspar da Costa)が船で至り、住民に捕らえられたのが最初である。その後、デ・コスタはパサイのシャーバンダル(港湾長官)[注釈 5]に身代金を要求され、同地域で逃亡した。翌年、アリとその弟ラジャ・イブラヒムは、スマトラ島北部を支配するために一連の軍事作戦を開始し、やがてポルトガル人を引き込んで死闘を繰り広げることになる。征服は東海岸にまで及び、胡椒の産地や金の産出地が複数その版図に含まれることになった。アチェの強みは貿易港であり、その経済的利益は鉱物や胡椒の生産港とは異なるため、こうした地域の追加は究極的に王国内部の緊張を招くことになった。
その後、1521年にホルヘ・デ・ブリト(Jorge de Brito)率いる200人のポルトガル艦隊が到着した。アリはアチェに滞在していたとあるポルトガル人にデ・ブリトらへの贈り物を持たせて使いとした。しかし、この使節は立場を改め、デ・ブリトにアチェの首都を攻撃するよう説得し、以前のアチェ強奪を思い出させながら同都には金で満たされた聖域があるという話でデ・ブリトを誘惑した。これに対しアリは800〜1000人の兵と6頭の象を率いて進軍し、ポルトガル軍を完敗をせしめた。デ・ブリトは殺され、生き残った者たちは船で逃げ帰った[11]。ヨーロッパの大砲が数多く捕獲され、これらはピディーに対して有効活用された。同年、ポルトガルはパサイを占領し、アチェ人の新たな攻撃を呼び起こした。
これらの軍事行動は、ポルトガルの海軍力とスマトラ島のジョホール王国の領有権に挑戦するものであった[12]。1520年代の勝利は、アチェ戦争(1873年 - 1903年)まで続く大国としてのアチェ王国を作り上げた。しかし、ポルトガルとの闘いは絶え間なく続き、1527年、フランシスコ・デ・メロ(Francisco de Mello)船長は首都バンダ・アチェ郊外の停泊地でアチェ王国の船を沈没させ、乗組員を殺害した。翌1528年、シマン・デ・ソウザ・ガルヴァン(Simão de Sousa Galvão)が嵐のためにアチェ王国に避難することを余儀なくされた折には、地元の人々に襲われ、一行のほとんども殺されたうえで残りを捕虜として連れて行かれた。アリは和平交渉を開始し、その結果、ピディーやダヤにいた反アチェ勢力のいたアルーとポルトガルによる共同遠征の準備が中止された。しかし、その後すぐに新たな事件が起こり、アリはポルトガル人の捕虜をすべて殺すこととなった[13]。1529年、アリはマラッカへの奇襲征服を計画したが、計画の知らせが漏れ、企てが開始されることはなかった[14]。
Djajadiningrat, Raden Hoesein (1911) 'Critisch overzicht van de in Maleische werken vervatte gegevens over de geschiedenis van het soeltanaat van Atjeh', Bijdragen tot de Taal-, Land- en Volkenkunde 65, pp. 135–265.