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ガイウス・ユリウス・カエサル (ラテン語 : Gaius Iulius Caesar 、Julius とも、紀元前100年 - 紀元前44年 3月15日 [注釈 1] )は、共和政ローマ 末期の政務官 であり、文筆家 。「賽は投げられた 」(alea jacta est )、「来た、見た、勝った 」(veni, vidi, vici ) 、「ブルータス、お前もか 」(et tu, Brute? ) などの特徴的な引用句でも知られる。また彼が布告し彼の名が冠された暦(ユリウス暦 )は、紀元前45年から1582年まで1600年間以上に渡り欧州のほぼ全域で使用され続けた。
古代ローマで最大の野心家と言われ[2] 、マルクス・リキニウス・クラッスス 及びグナエウス・ポンペイウス との第一回三頭政治 と内戦 を経て、永久独裁官 (英語版 ) (ディクタトル・ペルペトゥオ)となった[3] [4] 。「カエサル 」の名は、帝政初期 にローマ皇帝 が帯びる称号の一つ、帝政後期 には副帝の称号となった(テトラルキア 参照)。ドイツ語のKaiser (カイザー )やロシア語のцарь (ツァーリ )など、皇帝を表す言葉の語源でもある。
従来カエサルはポプラレス (民衆派)とされてきたが、当時の政治状況を簡単に二分することはできないため、「カエサル派」とすべきだとする意見がある。
出自
紀元前129年 頃に鋳造されたデナリウス 銀貨。セクストゥス・ユリウス・カエサルの名と共にウェヌスの姿が刻まれている
ユリウス氏族は、王政ローマ 時代、ロームルス が隠れたときに動揺する民衆をプロクルス・ユリウスが説得したという伝説があり[6] 、ホラティウス三兄弟 の決闘でアルバ・ロンガ に勝った後、セルウィリウス氏族 やクィンクティウス氏族 らと共に移住してきたアルバの元指導者層で、パトリキ (貴族)に列せられたという[7] 。
氏族は古い系譜を有するパトリキではあったが、カエサル家は2つの家系に分かれ、カエサルの直系の先祖に執政官経験者はいない。当時力を付けてきていたガイウス・マリウス と結ぶことによってその地位の向上を計ったとみられる。カエサルは自身の叔母でマリウスの妻でもあったユリア (ガイウス・マリウスの妻) (英語版 ) の追悼演説で「ユリウス氏族はアエネアス の息子アスカニウス に由来し、したがって女神ウェヌス の子孫であり、また、カエサルの母方はアンクス・マルキウス (王政ローマ 第4代の王)に連なる家柄である」と述べている[9] 。(氏族の先祖であるガイウス・ユッルス の頃は、コグノーメンをIullusと表記していたが、『アエネーイス 』でアスカニウスの別名ユールスが有名になるにつれ、Iulusと表記されるようになった。)
カエサルが戦地で鋳造したと思われるデナリウス銀貨。象の姿が刻まれている
なお、「カエサル」という家族名の起源としては以下の説がある。
生涯
マリウスのものと思われる胸像。グリュプトテーク 収蔵
生誕
ガイウス・ユリウス・カエサルの生誕年として以下の2つの説がある。
スエトニウス 『皇帝伝』の記述に沿った紀元前100年 [14] 、
カエサルがプラエトル (法務官=就任資格が40歳以上)に就任した紀元前62年から逆算した紀元前102年
父は同名のガイウス・ユリウス・カエサル (Gaius Iulius Caesar)で、ガイウス・マリウス は父ガイウスの義弟に当たる。父ガイウスはプラエトル を務めた後、アシア属州 の属州総督 を務めた。母はルキウス・アウレリウス・コッタ の娘アウレリア・コッタ (英語版 ) で、祖先に幾人もの執政官 を輩出した名家の出身であった。また、カエサルには幼少の頃から家庭教師としてマルクス・アントニウス・グニポが付けられたが、グニポはガリア 系の人物であった。
なお、誕生月日も幾つかの説がある。カエサルの神格化を決議した後にカエサルの誕生日を祝う記念日を『ルディ・アポッリナレス (英語版 ) 』(7月6日から13日まで)の最終日に当たる7月13日を避けて7月12日に設置したと伝わっているため、7月13日をカエサルの誕生日とする説が有力であるが、7月12日とする説もある。
青年期
幼少期のカエサルについては、プルタルコス『英雄伝』やスエトニウス『ローマ皇帝伝』などの文献に言及が無く、はっきりしない。ローマ国内は政治的に不安定で、ユグルタ戦争 、キンブリ・テウトニ戦争 の英雄ガイウス・マリウスと、そのライバルであったルキウス・コルネリウス・スッラ が対立しており[15] 、カエサルは叔母ユリアがマリウスに嫁いでいたことからマリウス派であった。ただ、それはよく民衆派と呼ばれる政党的なものというよりは、マリウスを中心とした緩い個人的なつながりと考えられる。紀元前91年 の同盟市戦争 では、同盟国がローマ市民権 を求めて蜂起し、ルキウス・カエサル がユリウス法を提案し、イタリア半島ポー川 以南の全自由民に市民権を与えることで決着したが、彼らをどのトリブス (選挙区)に登録するかで揉め、一部の抵抗も続いていた。
スッラ時代
カエサルの妻、コルネリア・キンナエ
紀元前88年 、ポントス王国 ミトリダテス6世 とのミトリダテス戦争 が起り、執政官であるスッラがインペリウム を得て指揮を執ることになった。しかしマリウスにミトリダテス討伐のインペリウムを付与する法案が提出され、市内では騒乱が起り、ローマを脱出したスッラは同僚執政官と共に軍を率いてローマへ侵攻。老年のマリウスはローマから逃げのびたが、「国家の敵」宣言を受ける[18] 。そしてスッラがルキウス・コルネリウス・キンナ に後事を託して再び遠征に出かけると[19] 、今度は同僚執政官に追放されたキンナがマリウスを呼び戻し再びローマを制圧、スッラを「国家の敵」と弾劾してスッラ派を粛清した。ルキウス・カエサルも、マルクス・アントニウス・オラトル らと共に殺され、ロストラ に晒された[21] 。
紀元前86年 初頭、マリウスは没した。残されたキンナは死去する紀元前84年 までローマを支配し、おそらくこのキンナ時代に新市民のトリブス登録問題は解決されたと考えられている。
紀元前84年 にカエサルの父が死去すると、翌紀元前83年 、カエサルはユピテル神官に選出される。しかし、この職務はパトリキ のみに開放されており、前提としてパトリキと結婚する必要があったので、カエサルは婚約していた騎士階級(エクィテス )の娘コッスティアと別れ、コルネリウス氏族 であるキンナの娘コルネリアと結婚した[24] 。後にスッラはカエサルに離縁を強要したが、カエサルが拒否したため代わりに持参金を没収している[25] 。ユピテル神官はローマを離れることが出来ず、戦争に関わるタブーが多かったため、もし就任していたとすれば、彼のキャリアは終わっていたはずで、実際には最高神祇官 の抵抗によって就任していないと考えられる。
スッラのものと思われる胸像。グリュプトテーク収蔵
その頃、ミトリダテス戦争に勝利したスッラが再びローマへ進軍し、マリウス・キンナ派の抵抗を受けたがローマ市を制圧。反対派をプロスクリプティオ に基づいて徹底的に粛清し、紀元前82年 には従来、任期が半年に限定されていた独裁官の任期を事実上無制限とした「法制秩序再生独裁官 」に就任した[27] 。このスッラの帰還に合わせ、クラッススやポンペイウス、クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス が挙兵している。
血縁としてマリウスに近く、キンナの婿であるカエサルも民衆派とみなされ、彼はあやうく殺されそうになった。しかしこの時、ガイウス もしくはルキウス・アウレリウス・コッタ 、マメルクス・アエミリウス・レピドゥス・リウィアヌス 、ウェスタの処女 らに助命嘆願され、スッラもこれにしぶしぶ同意する。その時スッラは「いいだろう。許そう。だが忘れるな。いつかあの若者が我々貴族[注釈 4] を滅ぼすぞ。彼の中には多くのマリウスがいるのだ」と語ったと伝えられる[24] 。
紀元前81年 、カエサルはアシア属州 を担当していたプラエトル、マルクス・ミヌキウス・テルムスのもとに派遣され、ビテュニア 王ニコメデス4世 のもとに艦隊調達の交渉に向かい長期間滞在する。スエトニウスによれば、この時に王と若いカエサルは男色関係 を持ったという噂が立ったが、ミュティレネ 包囲戦では「市民冠」を授与されている[30] 。この市民冠の授与によって、カエサルが元老院に議席を得、その特権によって政務官の年齢制限を回避できたとすれば、紀元前100年生まれでもおかしくはないことになる。ただ、この男色の噂は生涯に渡って付いて回り、「ビテュニアの女王」などと政敵より攻撃される材料となった[32] 。
この頃ローマでは、コルネリウス法 を制定し改革を一通り終えたスッラが紀元前80年 に独裁官を辞していた。このスッラの行動を後年カエサルは、「自分から独裁官を辞めるようなおめでたい奴をスッラと呼ぶのさ」と評したという[33] 。
スッラ死後
紀元前78年 にスッラが死去したことでカエサルはローマへ帰還した。すると、同僚執政官と反目し、スッラが定めた護民官権限削減の復活や穀物法の撤回、没収された資産の返却などを訴え挙兵したマルクス・アエミリウス・レピドゥス はカエサルに参加を呼び掛けたが、カエサルはこれを断った[35] 。
当時ローマでは属州統治に現地民への脅迫や搾取・収賄を行う者が頻繁にいた。紀元前77年 、カエサルは執政官経験者のグナエウス・コルネリウス・ドラベッラ をこの罪で訴追した[36] 。共和政ローマでは私人訴追主義 で、訴追者自らが裁判で相手側弁護士と戦うため、多数決で判決を下す審判人を説得するための高度な修辞学 が求められ、訴追者は政敵や訴追によって名を売ろうとする若者、職業的訴追人などが主であった。
このドラベッラの告発に失敗し、復讐を恐れたカエサルは紀元前75年 にロドス島 へ赴き、キケロ の師で[38] 修辞学の権威として著名であったアポロニウス・モロン に師事した[39] 。彼には弁舌の才能もあったが、その努力を政治や軍事方面に向けた結果覇者となったため、キケロは他の雄弁家と比較することは避けたという[40]
この時カエサルはエーゲ海 を船で渡っていたが、途中キリキア の海賊 に囚われの身となった。海賊は身代金として20タレント を要求したが、カエサルは「20では安すぎる、50タレントを要求しろ」と海賊に言い放ち、その間海賊に対して恐れもせずに尊大に接するだけではなく、「自分が戻ったらお前たちを磔にしてやるぞ」と海賊に対し冗談すら言った。そして身代金が支払われて釈放されるとカエサルは海軍を招集し海賊を追跡、捕らえてペルガモン の獄につないだ。そしてアシア属州の総督に処刑するように命じるが、総督はこれを拒否して海賊を奴隷に売ろうとする。するとカエサルは海路を引き返して、冗談でほのめかした通りに自分の命令で海賊たちを磔刑に処したという[41] 。
紀元前73年 、カエサルは死去したガイウス・アウレリウス・コッタ (紀元前75年の執政官) の後継神祇官に就任したと考えられている。
クルスス・ホノルム
紀元前71年 、軍団司令官(トリブヌス・ミリトゥム )に就任、クルスス・ホノルム を歩み始めた。ヒスパニアでのクィントゥス・セルトリウス によるローマとの戦争 (英語版 ) に加えて、紀元前73年 にはスパルタクス らが首謀した第三次奴隷戦争 が勃発、グナエウス・ポンペイウス やマルクス・リキニウス・クラッスス がこれらの戦争で活躍していた。彼ら二人は紀元前70年 に執政官を務めている。この時期のカエサルは妻の兄弟のキンナと手を組み、市民集会 (コンティオ)で演説を行うなど、スッラの粛清から逃げていた人々の帰還事業を支援していた[45] 。
クァエストル
ポンペイア
紀元前69年 に財務官(クァエストル )に選出された。この頃、叔母でマリウスの寡婦であったユリアの葬儀で追悼演説を行った[9] 。またこの時、スッラの粛清以来すっかり見なくなったマリウスの像を掲げてみせたという[46] 。妻のコルネリアも同年死去したため、カエサルはクィントゥス・ポンペイウス・ルフス とスッラの孫であるポンペイアと結婚した[9] 。
財務官として、カエサルはヒスパニア・ウルテリオル のプロプラエトル、ガイウス・アンティスティウス・ウェトゥスの下で働く。ここでアレクサンドロス大王 の像を目にして「アレクサンドロスは今の私と同じ年の頃には世界を手に入れた。自分は何もなしえていない」と落胆し、こんなことをしている場合ではないと、辞任を申し出ようとした。カエサルはこの夜に母アウレリアを犯す夢を見たため激しく狼狽したが、占い師は「母とは全ての母に当たる『大地』である」と解釈し、彼が支配者となる証だと焚き付けた[48] 。カエサルは任期を早めに切り上げ、ローマに帰る途中、ローマ市民権を要求して不穏な空気が流れていたトランスパダナ(ポー川以北)地方を回った。スエトニウスは、彼が何かしら企んでいたのかもしれないとしている[49] 。
この時期、カエサルはローマ転覆の陰謀への関与が取り沙汰された。上級按察官(アエディリス・クルリス )に就任する直前に、その年収賄の罪で予定執政官の地位を剥奪されていたプブリウス・コルネリウス・スッラ(紀元前68年のプラエトル)とプブリウス・アウトロニウス・パエトゥス(紀元前68年のプラエトル)、クラッススと謀り、元老院を強襲してクラッススを独裁官、カエサル自身はその副官である騎兵長官(マギステル・エクィトゥム )としてローマを壟断しようとする計画であった。これは複数の歴史家が記録しているが、結局クラッススが決心できず未遂に終わったという。他にもトランスパダナのガリア人 らと呼応して決起する計画もあったという[51] 。
アエディリス・クルリス
紀元前65年 には上級按察官に就任した(平民按察官の一人はキケロであった)。同僚のマルクス・カルプルニウス・ビブルス と公共事業や競技会などを行ったが、まるでカエサルだけが負担したかのように賞賛されたという[53] 。こうして民衆の支持を得ると、カエサルは護民官を抱き込んでプレブス民会 で古代エジプト が任地となるよう決議させようとした。しかし貴族たちの反対にあい、それに反発したカエサルは公然と叔父であるマリウスの戦勝碑の修復に着手し、スッラのプロスクリプティオ に基づく没収財産で財を成した者の告発を行った[54] 。
紀元前63年
紀元前63年 、護民官 ティトゥス・ラビエヌス と共闘し、元老院議員ガイウス・ラビリウス を、37年前の護民官ルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌス 殺害の容疑で告発させた。そして遠縁のルキウス・カエサル と共に古代に存在した国家反逆罪審問官 に就任し、弁護側にはキケロとホルタルス が就いたものの、ラビリウスを有罪とした。ラビリウスはウァレリウス法 などで定められた上訴(プロウォカティオ)を行なったが、この時プラエトル のクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ケレル がヤニクルムの丘 に掲げられた戦時召集の旗を下げ、民会 を解散したため、裁判自体はうやむやになった[56] [57] 。
ポンティフェクス・マクシムス
同年、カエサルはスッラの治世中に任命された前任のクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス の死去に伴い、最高神祇官 に立候補する。彼は同じく立候補した執政官経験者のクィントゥス・カトゥルス とプブリウス・イサウリクス とその座を争うことになり、選挙運動で多額の借金を抱えていたカエサルは、母アウレリアにキスしながら、「最高神祇官にならなければ(自宅に)戻ってくることはないでしょう」と言った。しかし結果はカエサルの当選、対立候補2人の所属トリブス票すら奪い取っての勝利だった[58] 。カトゥルスはカエサルに大金と引き換えに立候補を断念するよう持ちかけたが、カエサルはこれ以上いくら借金が増えようが闘い抜くと宣言したという[59] 。カエサルは、晴れて公邸(レギア )に住む身となった。
60才前後のキケロ。プラド美術館 収蔵の胸像を元にした写真製版
カティリナ事件
この年は激動の年であった。前年行われた執政官選挙では、あまり有力な候補者がおらず、ルキウス・セルギウス・カティリナ とガイウス・アントニウス・ヒュブリダ 、そしてキケロの争いとなり、カティリナが落選した。カティリナとヒュブリダは、クラッススとカエサルに支援されていた。
年初に始まった護民官によって提出された土地分配法 の審議では、キケロはこの法案の狙いを、農地を分配する十人委員会から戦場にいるポンペイウスを排除するため、クラッススとカエサルが裏で糸を引いていると読んで、反対演説を行い成立を阻止した(『農地法について』)。
少数の人間があなたの財産を狙っているとする。そのときまず何を考えるだろうか。
あなたを守る権力、委員会、そして手段から、ポンペイウスを排除する、
そのことを考えない人間がいるだろうか。
あなたがたが軽率に、何も考えずにこの法案を通した後になって、
欠陥に気が付きポンペイウスを頼ったところで、後の祭りになることを望んでいるのだ。
—キケロ、『農地法について(De Lege Agraria)』2.25
"Cicerone denuncia Catilina" 、カティリナ(右端)を追及するキケロ(左側手前)、イタリア人画家チェーザレ・マッカリ (英語版 ) による1888年 の作
カティリナはこの年の執政官選挙にも立候補したが、再度落選し、エトルリア での反乱を企てた。このことが明るみに出ると、この年の執政官であったキケロに対し、「執政官は国家に害が及ばぬよう対処せよ 」と命じる元老院決議が10月21日に成立。11月にはカティリナに対し「国家の敵(ホスティス)」宣言が発せられる。ところがこのカティリナには中央にも共謀者がおり、その中には執政官経験者であるプブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スラ も含まれていた。12月3日、謀反の証拠を掴んだキケロは5人の関係者を逮捕。元老院でキケロに追い込まれた彼らは罪を認め、12月5日の元老院で対応が協議されることになった。翌年の予定執政官、14人の執政官経験者が極刑を求める中、予定プラエトル[注釈 5] であったカエサルは陰謀に加担した者の死刑に反対する演説を行い、あくまでも終身の投獄を主張する立場をとる。クィントゥス・カトゥルス以外の多くの議員がカエサルの意見に賛同を示し始めた中、マルクス・ポルキウス・カト (小カト)は謀反には極刑をもって臨むべしと強く主張し、結局陰謀者たちは執政官キケロによって処刑された。
あなた方は冷静さを失っておられるのではないか。
誰しも自分が害を受けた場合にはそれを大仰にとらえるものだ。
しかし、大いなるインペリウムを預かる我らには、
下々のような自儘は許されるものではない。
スッラの行なったプロスクリプティオを思い起こして欲しい。
これが悪しき前例となって、将来我らに牙を剥かないと誰が言えるのか。
サッルスティウス 『カティリーナの陰謀』カエサルの演説より要約
私は語りかけよう。国家よりも自身の資産や財産を大事に思われている方々に。
目を覚ましたまえ。狙われているのは我らの自由と生命なのだ。
これまであなた方が怠惰であっても国家が揺るがなかったのは、その偉大さゆえに他ならない。
だが今、それが脅かされているというのに、寛容であれという人間がいる。
最高神祇官たるカエサル殿は、悪人が死後どのような扱いを受けるか信じておられぬ様子[注釈 6] 。
我らの弱腰な対応を見れば、奴らは喜び勇んでここになだれ込んでくるだろう。
あなた方が自身のことだけを考え、欲望とカネに仕えるなら、
空虚な国家に痛撃を加えられたとて、何の不思議があろうか。
サッルスティウス『カティリーナの陰謀』小カトの演説より要約
小カトのものと思われる胸像。グリュプトテーク収蔵
サッルスティウスは『カティリーナの陰謀』の中で、この二人の演説にほぼ1/6を割いている。この討論の最中、カエサルがメモを受け取ったのを見た小カトは、陰謀に関わった証拠だと詰め寄ったが、カエサルから渡されたその中身は、小カトの姉セルウィリアからの恋文であったため、小カトはカエサルにそれを投げつけて演説を続けたというエピソードも伝わる[69] 。
ノウス・ホモ であったキケロは12月3日には「国家の父(パテル・パトリアエ)」と呼ばれ、軍事的勝利によらず感謝祭を開催された最初の人間となった。カエサルは方針決定後も更に妨害を続けたが、キケロやカトの意見を支持する一団に打ち殺されそうになった為、すっかり腰が引けてしまい、その年は家に引篭もったという[71] 。
翌紀元前62年 には陰謀のさらなる追及のため委員会が設置された。その中でキケロは陰謀 が何たるか報告を事前に受けていたという証言があったが、彼は容疑の潔白を証明し、逆に自分を告発した人物、そして委員会のメンバーの1人も獄につながれる事態となった。その間にプラエトルのカエサルは一貫して処罰の連座制に反対の立場を貫いた。なお、カエサルはクラッススと共に裏で陰謀を画策していたとも伝えられた。[58] 。
[72]
三頭政治
紀元前61年、カエサルは、ヒスパニア・ウルステリオル 属州総督 として赴任した。カエサルはヒスパニアへ向かう道中に立ち寄った寒村で、部下に対して「ローマ人の間で第2位を占めるよりも、この寒村で第1人者になりたいものだ」と語ったという[73] 。
カエサルは属州総督としてローマ軍を率いてルシタニ族 (英語版 ) やガッラエキ族 (英語版 ) を討伐し、ローマへ服属していなかった部族も従えた。カエサルはこの属州総督時代に大金を得た[72] 。
紀元前60年 、コンスルをめざすカエサルは、オリエントを平定して凱旋した自分に対する元老院 の対応に不満を持ったポンペイウスと結び執政官に当選する。ただこの時点で、すでに功なり名を成したポンペイウスに対し、カエサルはたいした実績もなく、ポンペイウスと並立しうるほどの実力はなかった。そこでポンペイウスより年長で、騎士階級を代表し、スッラ派の重鎮でもあるクラッススを引きいれてバランスを取った。ここに第一回三頭政治 が結成された。民衆から絶大な支持を誇るカエサル、元軍団総司令官として軍事力を背景に持つポンペイウス、経済力を有するクラッススの三者が手を組むことで、当時強大な政治力を持っていた元老院に対抗できる勢力を形成した。
執政官在任中にまず、元老院での議事録を即日市民に公開する事を定めた。それまでは議員から話を聞く以外には内容が知られることはなかっただけに、議員たちはうかつな言動は出来なくなった。また、グラックス兄弟 以来元老院体制におけるタブーであった農地法を成立させる。当初、元老院はこの法案に激しく反対したが、カエサルは職権で平民集会を招集、巧妙な議事運営で法案を成立させるとともに、全元老院議員に農地法の尊重を誓約させることに成功した。
ガリア戦争
"Vercingetorix throwing his weapons at the feet of Caesar" フランス人画家リオネル・ロワイエ (英語版 ) による1899年 の作(ル・ピュイ=アン=ヴレ のクロザティエ博物館 (英語版 、フランス語版 ) 所蔵) アレシアの戦いにて、カエサル(赤いトーガ をまとう人物)の軍門に下り、勝利者の足元に武器を投げ捨ててみせるウェルキンゲトリクス(馬上の人)。
紀元前58年 、コンスルの任期を終えたカエサルは前執政官(プロコンスル )の資格で以てガリア・キサルピナ 及びガリア・トランサルピナ 等の属州総督に就任した。ヘルウェティイ族 がローマ属州を通過したい旨の要求を拒否したことを皮切りに、ガリア人とのガリア戦争 へ踏み出すこととなった。ヘルウェティイ族を抑えた後、ガリア人の依頼を受けてゲルマニア人 のアリオウィストゥス との戦いに勝ち、翌年にはガリアの北東部に住むベルガエ人 諸部族を制圧した。
その間の紀元前56年 にはルッカ でポンペイウス、クラッススと会談を行い、紀元前55年 にポンペイウスとクラッススが執政官に選出され、カエサルのガリア総督としての任期が5年延長されることが決定した。また、同年にゲルマニア に侵攻してゲルマニア人のガリア進出を退け、ライン川 防衛線の端緒を築いた。紀元前55年及び54年 の2度にわたってブリタンニア遠征 も実施した。
最大の戦いは紀元前52年 、アルウェルニ族 の族長ウェルキンゲトリクス との戦いであり、この時はほとんどのガリアの部族が敵対したが、カエサルはアレシアの戦い でこれを下した。これらの遠征により、カエサルはガリア全土をローマ属州とした。カエサルはガリア戦争の一連の経緯を『ガリア戦記 』として著した。
カエサルはこの戦争でガリア人から多数の勝利を得、ローマでの名声を大いに高めた。彼は「新兵は新軍団を構成し、既設の軍団には新兵を補充しない」という方針を採ったため、長期間の遠征に従事した軍団は兵数が定員を割っていたが、代わりに統率の取れた精強な部隊になった。軍団兵には、ローマにではなくカエサル個人に対し、忠誠心を抱く者も多かったといわれる。これらのガリア征服を通して蓄えられた実力は、カエサルが内戦を引き起こす際の後ろ盾となったのみならず、ローマの元老院派のカエサルに対する警戒心をより強くさせ、元老院派の側からも内乱を誘発させかねない強硬策を取らせることとなった。
ローマ内戦
ポンペイウスとの対決
紀元前53年 、パルティア へ遠征していた三頭政治の一角であるクラッススの軍が壊滅(カルラエの戦い )し、クラッススが戦死したことにより三頭政治は崩壊した。また、紀元前54年にポンペイウスに嫁いでいた娘ユリア が死去したことも受けて、ポンペイウスはカエサルと距離を置き、三頭にとって共通の政敵であったカトやルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス らに接近したため、両者の対立が顕在化した。
紀元前49年 、カエサルのガリア属州総督解任および本国召還を命じる『セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム (元老院最終決議)』が発布された。カエサルは自派の護民官がローマを追われたことを名目に、軍を率いてルビコン川 を越えたことで、ポンペイウス及び元老院派との内戦 に突入した[注釈 7] 。1月10日 にルビコン川を渡る際、彼は「ここを渡れば人間世界の破滅、渡らなければ私の破滅。神々の待つところ、我々を侮辱した敵の待つところへ進もう、賽は投げられた 」と檄を飛ばしたという[74] 。
ルビコン川を越えたカエサルはアドリア海 沿いにイタリア半島の制圧を目指した。対するポンペイウスはローマにいたため即時の軍団編成を行えず、イタリア半島から逃れ、勢力地盤であったギリシア で軍備を整えることにした。多くの元老院議員もポンペイウスに従ってギリシアへ向かった。こうして、カエサルはイタリア半島の実質的な支配権を手にした。
ローマ制圧後、マッシリア包囲戦 とイレルダの戦い でヒスパニアやマッシリア(現マルセイユ )などの元老院派を平定して後方の安全を確保し、カエサルが独裁官 として仕切った選挙で紀元前48年の執政官に選出された[75] 。独裁官を10日余りで自ら辞任し、ローマを発って軍を率いてギリシアへ上陸した。元老院派の兵站基地を包囲したデュッラキウムの戦い で敗退を喫したが、紀元前48年 8月のファルサルスの戦い で兵力に劣りながらも優れた戦術によって勝利を収めた。ポンペイウスはエジプト に逃亡したが、9月29日 、アレクサンドリア に上陸しようとした際、プトレマイオス13世 の側近の計略によって迎えの船の上で殺害された。後を追ってきたカエサルがアレクサンドリアに着いたのは、その数日後だった。
エジプトにて
『クレオパトラをエジプト女王へ据えるカエサル』"Cesare rimette Cleopatra sul trono d'Egitto" 、イタリア人画家ピエトロ・ダ・コルトーナ による1637年 の作 カエサル(中央、赤いマント)がクレオパトラ7世 の手を引いて玉座へ座るよう促している。右端はアルシノエ4世 。
ポンペイウスの死を知ったカエサルは、軍勢を伴ってアレクサンドリアに上陸した。エジプトでは、先代のプトレマイオス12世 の子であるクレオパトラ7世 とプトレマイオス13世の姉弟が争っており、両者の仲介を模索したものの、プトレマイオス13世派から攻撃を受けた為、クレオパトラ7世の側に立って政争に介入し、ナイルの戦い で、カエサル麾下のローマ軍はプトレマイオス13世派を打ち破った。この戦いで敗死したプトレマイオス13世に代わって、プトレマイオス14世 がクレオパトラ7世と共同でファラオの地位に就いた。
北アフリカ、ヒスパニア戦役
エジプト平定後、カエサルは親密になったクレオパトラ7世とエジプトで過ごしたが、小アジアに派遣していたグナエウス・ドミティウス・カルウィヌス がポントス王ファルナケス2世 に敗北したという報せが届いた。紀元前47年 6月、カエサルはエジプトを発ち、途中でポンペイウスの勢力下だったシュリア やキリキア を抑えつつ進軍、8月2日 にゼラの戦い でファルナケス2世を破った。この時、ローマにいる腹心のガイウス・マティウス (英語版 ) に送った戦勝報告に「来た、見た、勝った (Veni, vidi, vici. )」との言葉があった。その後ローマに短期間滞在、その際1年間の独裁官に任命された。
ポンペイウス死後もヌミディア 王ユバ1世 と組んで北アフリカを支配していたクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカ など元老院派をタプススの戦い で破り、更にウティカ を攻撃してカトを自害に追い込んだ(紀元前46年 4月)。
紀元前46年 夏、ローマへ帰還したカエサルは市民の熱狂的な歓呼に迎えられ、壮麗な凱旋式 を挙行した。カエサルはクレオパトラ7世をローマに招いており、クレオパトラ7世はカエサルとの間の息子とされるカエサリオン を伴っていた。紀元前45年 3月、ヒスパニアへ逃れていたラビエヌスやポンペイウスの遺児小ポンペイウス ・セクストゥス 兄弟らとのムンダの戦い に勝利して一連のローマ内戦を終結させた。
終身独裁官就任
元老院派を武力で制圧して、ローマでの支配権を確固たるものとしたカエサルは共和政の改革に着手する。属州民に議席を与えて、定員を600名から900名へと増員したことで元老院の機能・権威を低下させ、機能不全に陥っていた民会 、護民官を単なる追認機関とすることで有名無実化した。代わって、自らが終身独裁官に就任(紀元前44年2月)し、権力を1点に集中することで統治能力の強化を図ったのである。この権力集中システムは元首政(プリンキパトゥス )として後継者のオクタウィアヌス(後のアウグストゥス )に引き継がれ、帝政ローマ 誕生の礎ともなる。
紀元前44年2月15日 、ルペルカリア祭 の際にアントニウスがカエサルへ王の証ともいえる月桂樹 を奉じたものの、ローマ市民からの拍手はまばらで、逆にカエサルが月桂樹を押し戻した際には大変な拍手であった。数度繰り返した所、全く同じ反応であり、カエサルはカピトル神殿へ月桂樹を捧げるように指示したという[76] 。
共和主義者 はこの行動をカエサルが君主政 を志向した表れと判断した。また、カエサルは「共和政ローマは身も形もなく、名のみの夢幻の如くなり」「注意せよ、我が言はすなわち法なり」などと発言したとされる[33] 。これら伝えられるカエサルの振る舞いや言動、そして終身独裁官としての絶対的な権力に対し、マルクス・ユニウス・ブルトゥス やガイウス・カッシウス・ロンギヌス ら共和主義者は共和政崩壊の危機感を抱いた。
暗殺
『カエサル暗殺』(La Mort de César) フランス人画家ジャン=レオン・ジェローム による1867年の作
紀元前44年3月15日[77] (Idus Martiae )、元老院へ出席するカエサルの随行者はデキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌス であった。妻・カルプルニアは前夜に悪夢を見た為、カエサルに元老院への出席を避けるよう伝え、カエサルも一度は見合わせることを検討したものの、デキムスの忠告によってカエサルは出席することとした。以前「『3月15日』に注意せよ」と予言した腸卜官(ちょうぼくかん、臓卜師 とも。占い師のこと。)のウェストリキウス・スプリンナに元老院への道中で出会い、カエサルは「何も無かったではないか」と語ったが、スプリンナは「『3月15日』は未だ終わっていない」と返答した[78] 。
それ以前にカエサルは身体の不可侵性を保障される護民官職権を得ていたが、それに加えて元老院議員から安全に関する誓約(元老院議員ほどに社会的地位に高い者なら、「紳士協定」こそ守られなくてはならないとされていた)を取った上で、独裁官に付属する護衛隊を解散していた。カエサルは「身の安寧に汲々としているようでは生きている甲斐がない」「私は自分が信じる道に従って行動している。だから他人がそう生きることも当然と思っている」といったことを述べている。
ポンペイウス劇場 で開かれた元老院会議は、パルティア遠征を前にカエサル不在中のローマの統治体制を協議する予定であった。終身独裁官であったカエサルに随行するリクトル は元老院の慣習により元老院外で待機、腹心のマルクス・アントニウス はガイウス・トレボニウス によって引き離されていた。
事件は元老院の開会前に起こったとされ、ポンペイウス劇場に隣接する列柱廊(現在のトッレ・アルジェンティーナ広場 内)でマルクス・ブルトゥスやカッシウスらによって暗殺 された。23の刺し傷の内、2つ目の刺し傷が致命傷となったという[79] 。
殺される際、カエサルは「ブルトゥス、お前もか (Et tu, Brute? )」と叫んだとされ、これはシェイクスピア の戯曲『ジュリアス・シーザー 』の中の台詞として有名であるが[80] 、それ以前にもカエサルがこのような意味のことを言ったという説は存在していた。また、ギリシア語で「息子よ、お前もか? (καὶ σὺ τέκνον; )」[81] と言ったとも伝えられる。
紀元前44年ごろ発行されたデナリウス 銀貨。カエサルの横顔の周りには永久独裁官カエサルと刻まれており、裏面にはウェヌスと硬貨を鋳造したP. Sepullius Macerのコグノーメンが刻まれている
上記の「ブルトゥス」は通常、暗殺の指導者の1人で、カエサルが最も愛したと伝えられるセルウィリア [82] の息子であるマルクス・ユニウス・ブルトゥス を指す。数日後、カエサルの遺言状が開封された。第一相続人に当時18歳の大甥 (姪 であるアティア・バルバ・カエソニア の息子)ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス(後の初代ローマ皇帝 アウグストゥス )、第二相続人にデキムス・ブルトゥスとの内容であった[83] 。
カエサルは生前に死に方を問われた際に「思いがけない死、突然の死こそ望ましい」と答え、合わせて「私が無事息災でいることは、ローマのためにも必要である。私は長い間権力を握っており、もし私の身の上に何かが起こったら、ローマは平穏無事であるはずがない。もしかすると悪くなる可能性があり、内乱が起こるだろう」と語ったと伝えられている[84] 。
業績
年表
ローマの将軍として
独裁官として
多数の軍事的成功によるローマ国境内の安定化(後のパクス・ロマーナ に繋がる)。民生の充実、および共和政から帝政への移行のため、政治・経済・社会等、諸制度の全面的な改革を行う。
ガリア・キサルピナ 属州(現在の北イタリア地方)の都市計画並びに属州民へのローマ市民権 付与。シチリア とガリア・トランサルピナ 属州(現在の南フランス地方)住民へのラテン市民権 の授与。
元老院 議員をスッラ体制下の600人から900人に増員。中西部ガリアの部族長、属州のローマ市民、カエサルのケントゥリオ (百人隊長)などが新たに議席を得る。これによって元老院の権威 は著しく低下し、カエサルの権威に対抗する存在はなくなった。新たな属州出身者の元老院入りは人材の多様性をもたらし属州のローマ化に大きな影響を与えた一方で、元来の議員の敵意を招いた。後継者アウグストゥスの時代には、内乱の混乱で1000人以上となっていたのを600人に戻し、属州出身議員の登用は後のクラウディウス の時代まで凍結された。
権力を独占し従来の政治の基本構造であった民会 、護民官 を有名無実化した。
金銀の換算率の固定化、国立造幣所の開設、利息率の上限を設定。
法務官(プラエトル )、財務官(クァエストル )、按察官(アエディリス )の増員。
同僚執政官(コンスル )の補佐役化。
地方議会の被選挙権 の改正、解放奴隷 への公職門戸開放。
属州の再編成(スッラ:10州→カエサル:18州)。属州議会の認知、税制の公正化(公営の徴税機関設置)。
ユピテル 、ユーノー 、ミネルウァ をローマの主神とし、この神々を祭る日を休日とした。
センプロニウス法 再興による元老院最終勧告 の廃止。陪審員 資格をパトリキ (貴族)・エクィテス (ローマ騎士)・プレブス (平民)といった「階級別」から、「40万セステルティウス 以上の資産を持つローマ市民」へと改正。
小麦の無料給付者を15万人に半減。審査按察官の設置。
失業者と退役兵の植民先を属州に分散。カルタゴ とコリントス を再興。
教師と医師へのローマ市民権の授与。
カエサルのフォルム 建設、フォルム・ロマヌム 、市街地の拡大などの再開発を進めるためにセルウィウス城壁 を撤去した。そしてそれは「ローマの平和 は国境防衛線で守られるものである以上、首都では防壁など不要である」という宣言でもあった。
干拓・街道の整備延長やほかの公共事業。
ローマ暦 (太陰暦 )を改正、ユリウス暦 (太陽暦 )を制定[85] 。これはのちにグレゴリオ暦 が制定されるまで、1600年以上にわたってヨーロッパ各地で使われ続けることとなった。
文筆家として
人物像
カエサルの胸像(ウィーン 美術史美術館 )
カエサルが元老院議員として初めて表舞台に出た頃の評価は、「借金王」や「ハゲの女たらし」と言ったものであった。事実、借金は天文学的でとてつもない金額であった。紀元前61年春に、プロプラエトルとしてヒスパニアへ赴く前、カエサルが高飛びすると恐れて出発を妨げたため、カエサルは、最大の債権者クラッススに泣きつき、債務保証をしてもらい、ようやく任地に出発できた[86] 。
また、カエサル自身が総督として赴任したヒスパニア で現地の部族より金を無心したり、ガリアで現地部族が奉納している神殿や聖域にあった宝飾物を強奪したり、金目当てで街を破壊して回ったりということもあった。また、ローマでもカピトリヌス の神殿に奉納していた金塊を盗み、同重量の金メッキをした銅を戻したり[87] 、内戦中は護民官 の制止を振り切って神殿の財貨を強奪したとした[88] と伝わっている。
カエサルは、背が高く引き締まった体をしていたが、当時の美男子の条件である「細身、女と見紛うほどの優男 」には当てはまらなかった、また、頭髪が薄いことを政敵から攻撃されたため、はげた部分を隠すのに苦労していた。このため、内戦を終結させた業績を認められたことにより、いつ、どこでも月桂冠を被る特権を与えられたときは、大変喜んだという。なお、当時のカエサルが前髪の薄さを隠すためにしていた髪型 は、シーザーカット (英語版 ) (カエサルカット)と呼ばれており、ヨーロッパでは古くから典型的な男性の髪型の一種となっている。また、てんかん の症状があったとも伝わっている[89] 。
サッルスティウスは『カティリーナの陰謀』で、カエサルと小カトを、年齢や弁舌、その精神性や栄光もほぼ互角の人間として比較しており、カエサルはその恩恵と気前の良さ(beneficiis ac munificentia)によって賞賛され、友人のために働きづめに働いて、インペリウムを得て巨大な武勲を立てられる戦争を望んでいたとしている。彼らは当時予定プラエトルと予定護民官という元老院では低い地位でしかなかったが、それにしてはかなり持ち上げており、サッルスティウス自身はカエサル派であったが、小カトも同等に賞賛していることから、執筆当時の第2回三頭政治と、小カトの流れをくむ共和派の両方を意識してのことではないかと推測されている。
カエサルの妻と愛人たち
紀元前62年 、男性禁制のボナ・デア の儀式の際、妻ポンペイアが女装した情夫を引き入れたとされる騒動が起こった。カエサルは女装した犯人のプブリウス・クロディウス・プルケル の裁判に証人として出席したが、彼の容疑については何も知らないと答えた。しかし彼は事件後ポンペイアと離婚しており、それを不思議に思った検察官はなぜ離婚したのか尋ねたが、「カエサルの妻たるものは、いかなる嫌疑も受けてはならない」と答えたという[91] 。
また、カエサルには多くの愛人がいた。やや誇張と思われるが、一説によれば元老院議員の3分の1が妻をカエサルに寝取られたと伝えられている。このためカエサルは「ハゲの女たらし」と渾名された。古代ローマでは凱旋式の際に、軍団兵たちが将軍をからかう野次を飛ばす習慣があったが、カエサルの凱旋式においての軍団兵たちは「夫たちよ、妻を隠せ。薬缶頭(ハゲ)の女たらしのお通りだ」と叫んだ[92] 。「ハゲの女たらし」(羅: moechus calvus)と言われることを受け入れていたことは、カエサルの寛容さを説明する際に引き合いに出される。
なお、カエサルが関係を持ったと何らかの記述がある女性は以下の通りであり、他にも多くの女性と関係したと思われる。ただし記録にある限り、子宝にはほとんど恵まれなかった。
カエサルの娘でポンペイウスと結婚したユリア・カエサリス
評価
人々はカエサルの幸運についてしきりに語る。しかしこの非凡な人物は多くのすぐれた素質もあり、欠陥はないわけでなく、多くの悪徳を積みもしたが、どんな軍隊を指揮したところで勝利者となったろうし、どんな国家に生まれたところで、それを統治したことであろう。
カエサルは、文筆家としての才能も高く評価されており、キケロ と並び、ラテン文学 の散文における双璧をなしている。特に『ガリア戦記 』の雄渾で簡潔な文体は高く評価されている。また、上述した引用句も特徴的である。
終身独裁官に就任して以降、カエサルは度々王位への野心を露にしたとプルタルコス は伝えている。一例として、パルティア への遠征計画を挙げており、ローマで予言書とされた『シビュラ予言書 』には「王を戴かない限り、ローマ人はパルティアは征服できない」と記載されていたという[95] 。この時期、カエサルはローマ市民から憎悪されていたこともあって、共和主義者による暗殺計画を呼び込む一因となったとしている[96] 。
19世紀ドイツの歴史家 であり、ローマ史によってノーベル文学賞 を受賞したテオドール・モムゼン は、「ローマが生んだ唯一の創造的天才」と評した。[97]
ヘルマン・シュトラスブルガー は、後世の歴史家によって過大評価された記述を元にしてカエサルを賞賛することに対して警鐘を鳴らし、同時代人からは批判されることすらある、一政治家にすぎないとした。マティアス・ゲルツァー はこれに一定の評価をしつつ、カエサルのヴィジョンが当時としては優れていたことを指摘している。
カエサルが台頭する道のりは、あくまでも共和政の伝統的なクルスス・ホノルムに沿ったもので、当時の政治家として飛び抜けていたわけではない。独裁官としては、これまでの都市国家としてのローマを、地中海世界を支配できる体制へと変えたというが、これはカエサルら一部の人間によってのみ成し遂げられたわけではなく、当時社会的な変動が長く続いていた影響を無視できないという指摘がある。また、カエサルよりもスッラによる改革の影響を高く評価する学者もいる。
カエサルを描いた作品
伝記・史書
原典
伝記研究
概説
毛利晶 『カエサル 貴族仲間に嫌われた「英雄」』 「世界史リブレット人7」山川出版社 、2014年
ミシェル・ランボー『シーザー』 寺沢精哲訳、白水社〈文庫クセジュ 〉、1981年
『世界の戦史3 シーザーとローマ帝国』 人物往来社 、1966年。執筆は長谷川博隆・吉村忠典ほか
『世界を創った人びと2 カエサル 古代ローマの悲劇の英雄』 長谷川博隆編訳、平凡社、1979年
『ユリウス・カエサル』 ピエール・グリマール ほか執筆、長谷川博隆ほか訳、小学館 〈世界伝記双書〉、1984年
図版解説
『図説 永遠の都カエサルのローマ』 佐藤幸三解説、河出書房新社〈ふくろうの本〉、2004年
フランソワーズ・ベック/エレーヌ・シュー『ケルト文明とローマ帝国 「ガリア戦記」の舞台』
鶴岡真弓 監修、遠藤ゆかり訳、創元社 〈「知の再発見」双書 〉、2004年
エディット・フラマリオン『クレオパトラ 古代エジプト最後の女王』 高野優 訳、創元社〈「知の再発見」双書〉、1994年
文学作品
映画
テレビドラマ
漫画
ゲーム
脚注
注釈
^ 生年は太陰暦 であるローマ暦 、没年はユリウス暦 。
^ カエサル自身は自らの横顔を刻ませたコインの裏に象を描かせていることから「象」説を採っていたとも考えられる。
^ イシドールス の『語源』ではカエサル自身の頭髪が生まれつき豊かだった可能性に言及しているが、成人後のカエサルはむしろ薄毛を揶揄されることが多かった。
^ 岩波文庫版では門閥派。こちらはラテン語ではoptimatium、英語ではaristocracy
^ 翌年のプラエトルを決める選挙の当選者
^ 死後ではなく、後々大変なことになることが分かっていない、とする読み方もある
^ 当時のローマ法では、ルビコン川以南への軍の侵入は禁じられていた
出典
^ 発行人・児山敬一『人物学習辞典2巻 オハ~サト』昭和61年、19頁。
^ Fasti Capitolini (Rome): ..../ [C(aius) Iulius C(ai) f(ilius) C(ai) n(epos) Caesar in perpetuum dict(ator)] / [rei gerundae causa](ガイウス・ユリウス・ガイウスの子・ガイウスの孫・カエサル、永久独裁官。公務のため)
^ リウィウス『ペリオカエ』116: 元老院によって「祖国の父」の呼称と共に独裁官権限と不可侵権が付与された後、、、
^ リウィウス『ローマ建国史』1.16.5-7
^ リウィウス『ローマ建国史』1.30.2
^ a b c スエトニウス『ローマ皇帝伝』カエサル 6
^ 第7巻 9章 47節。http://penelope.uchicago.edu/Thayer/L/Roman/Texts/Pliny_the_Elder/7*.html
^ “Cesarean Section - A Brief History ”. 2021年10月23日 閲覧。
^ Historia Augusta . Helius 2:3 . http://penelope.uchicago.edu/Thayer/L/Roman/Texts/Historia_Augusta/Aelius*.html
^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』カエサル 88ほか
^ プルタルコス『英雄伝』スッラ、6
^ プルタルコス『英雄伝』スッラ、7-9
^ プルタルコス『英雄伝』スッラ、10
^ リウィウス『ペリオカエ』80.6
^ a b スエトニウス『ローマ皇帝伝』カエサル 1
^ プルタルコス『英雄伝』カエサル、1.1
^ プルタルコス『英雄伝』スッラ、24-33
^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』カエサル 2
^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』カエサル 49
^ a b スエトニウス『ローマ皇帝伝』カエサル 77
^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』カエサル 3
^ プルタルコス『英雄伝』カエサル、4.1
^ プルタルコス『英雄伝』カエサル、3.1
^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』カエサル 4
^ プルタルコス『英雄伝』カエサル、3.2-4
^ プルタルコス『英雄伝』カエサル 2
^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』カエサル 5
^ プルタルコス『英雄伝』カエサル 5
^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』カエサル 7
^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』カエサル 8
^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』カエサル 9
^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』カエサル 10
^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』カエサル 11
^ カッシウス・ディオ 『ローマ史』37.27
^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』カエサル 11ほか
^ a b スエトニウス『ローマ皇帝伝』カエサル 13
^ プルタルコス「英雄伝」カエサル 7
^ プルタルコス 『英雄伝』小カト、24
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^ a b プルタルコス 「英雄伝」カエサル 12
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^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』カエサル 32
^ カエサル「内乱記」3.1
^ プルタルコス「英雄伝」カエサル61
^ 明石和康『ヨーロッパがわかる 起源から統合への道のり』岩波書店 、2013年、9頁。ISBN 978-4-00-500761-5 。
^ プルタルコス「英雄伝」カエサル63
^ プルタルコス「英雄伝」カエサル66
^ シェイクスピア「ジュリアス・シーザー」第3幕 第1場
^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』カエサル 82
^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』カエサル 50
^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』カエサル 83
^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』カエサル 87
^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』カエサル 40
^ プルタルコス「英雄伝」クラッスス 7
^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』カエサル 54
^ プルタルコス「英雄伝」カエサル 35
^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』カエサル 45
^ プルタルコス「英雄伝」カエサル10
^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』カエサル 51
^ 井上幸治 訳『ローマ盛衰原因論』中央公論新社 〈中公クラシックス 〉、2008年、85頁。
^ スエトニウス『皇帝伝』カエサル 79
^ プルタルコス「英雄伝」カエサル60
^ 『ノーベル賞文学全集21』 モムゼン、長谷川博隆 訳「ローマ史抄」113
^ 日本放送協会 編「巻末」『十二夜』日本放送出版協会、1981年11月。
^ 「大江慎一郎 」『Wikipedia』2019年9月12日。
^ worldchain_PRのツイート(821281009320820736)
参考文献
関連項目
ラテン語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
ウィキメディア・コモンズには、
ガイウス・ユリウス・カエサル に関連する
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外部リンク