Rhétoriqueursと呼ばれる詩人たち(父親もその一人。en:Grands Rhétoriqueurs参照)の時代だった。詩人たちは大袈裟で衒学的な言葉と15世紀の寓意的な様式への執着とを結合させ、複雑かつ人工的な形式のバラード、ロンドーを作っていた。クレマン・マロは(後には投げ捨てることになる)こうした詩形を使って、フランソワ・ラブレーの「ラミナグロビス(Raminagrobis)」のモデルと言われるギヨーム・クレタンへの賛辞(en:Panegyric)を書いた。一方で、1512年、ウェルギリウスの第一『牧歌』を翻訳した(『La première Églogue des Bucoliques de Virgile』)。マロはまもなく法学の勉強を捨て、ヴィレロイの領主ニコラ・ド・ヌフヴィル(Nicolas de Neufville。同名の人物が数人いる)の従者になった。このヌフヴィルがマロを宮廷に紹介した。当時のフランスの王朝ヴァロワ家は文学に熱心だった。
1514年、マロは『Le Jugement de Minos(ミノスの審判)』を、王位継承直前のフランソワ1世に捧げた。そのすぐ後、マロはクロード・ド・フランスへの「facteur de la reine」と自分でそう呼んだか、あるいは呼ばれたかした。1519年、マロは芸術のパトロンとして知られるマルグリット・ダランソン(フランソワ1世の姉で、後のマルグリット・ド・ナヴァル)の従者の一員となった。マロはフランソワ1世のお気に入りでもあり、1520年の金襴の陣に参列し、詩でそれを祝った。翌1521年にはフランドルの野営地に赴き、戦争の恐ろしさを書いた。
1524年、マロはフランソワ1世のイタリア遠征に随行した。しかし、パヴィアの戦いでフランソワ1世が捕虜になった。マロが負傷したか、王と運命をともにしたかはわからない。いずれにせよ、1525年のはじめにマロはパリに戻った。やがて、マルグリットは知的な理由から、フランソワ1世は政治的な理由から、二人はこの時代を特徴づける人文主義と改革の二重の「啓蒙」運動を支持するようになった。しかし、革新への強力な抵抗が起こり、とくに慎重でもなかったマロは異端の罪で逮捕され、1526年2月、シャルトルに投獄された。しかし、マルグリットに代わって、友好的な高位聖職者たちが復活祭前にマロの解放を決めた。この投獄はマロに『l’Enfer(地獄)』という迫力ある詩を書かせた。この詩は後に友人のエティエンヌ・ドレに模倣された。マロの父親が亡くなったのはこの頃で、マロは父親の役職だった「王の従者」(en:Valet de chambre)に就いた。さらに1528年には、俸給250リーブルで、王室の一員となった。1530年頃、結婚した。1531年、再びマロはトラブルに見舞われ投獄されたが、この時も釈放された。この時、フランソワ1世に書いた釈放を乞う詩は有名なものである。
1532年、マロは『クレマンの若き日(L'Adolescence clémentine)』と題した最初の作品集を発表した。大変な好評で何度も版を重ねた。その中でも、ドレの1538年版が最も権威あるものと考えられている。1533年にはフランソワ・ヴィヨンの詩集を初出版した。 しかし、マロの敵たちは先の失敗にも挫けることなく、1534年の檄文事件にマロが関わったと訴えた。マロは逃亡した。ネラック、ナバラ宮廷を経て、マロが向かった先は、マルグリットの義理の姉妹で、フランス宗教改革の支援者だったルネ・ド・フランスのところだった。その領地(フェラーラ)はフランス国外だったからである。フェラーラでマロは、フランスのすべての詩人たちが模倣したブラゾン(Blasons。中世の手本を改良した記述的な詩)を含む作品を書いた。Thomas Sibiletは「ブラゾン」を、「相手に対する果てしない讃美、もしくは絶え間ない非難」と定義している。マロの追随者たちの「ブラゾン」は1543年に『Blasons anatomiques du corps féminin』という題名で出版された。