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ヤコポ・ダ・ポントルモ 『コジモ・イル・ヴェッキオの肖像 』(1518 - 1519年)、ウフィツィ美術館
コジモ・デ・メディチ (Cosimo de' Medici , 1389年 9月27日 - 1464年 8月1日 )は、フィレンツェ共和国 (イタリア )の銀行家である。メディチ家 のフィレンツェ支配を確立した。コジモはフィレンツェに納められた税金のおよそ65%を負担し、死後ローマ皇帝にならい、「祖国の父 」「pater patriae」の称号を贈られた。通称コジモ・イル・ヴェッキオ といわれる(イル・ヴェッキオ il Vecchio は老人の意)。
生涯
父ジョヴァンニ の築いた銀行業を受け継ぎ、発展させた。1429年 には父が亡くなり、メディチ家当主となる。1433年 、政変が起こりフィレンツェ を追放され、ヴェネツィアに逃れる。しかし翌年10月6日、反対派のアルビッツィ家 が失脚・追放され、コジモはフィレンツェ共和国 に帰還する[1] 。
対立の激しいフィレンツェ国内では、政治的に表面に出ることを避け、選挙制度を操作して政府をメディチ派で固めた。対外的には、イタリアの強国(ヴェネツィア 、ミラノ 、ナポリ )との勢力均衡を図り、ローマ教皇庁 との結びつきを強めて、カトリック ・東方教会 合同のフィレンツェ公会議 を開催した(1439年)。
ルネサンス期の重要なパトロン の一人としても知られ、美術ではフィリッポ・ブルネレスキ 、ミケロッツォ 、ドナテッロ らを庇護した。また、古代ギリシャの哲学者プラトン の思想に心酔して、私的な学芸サークルプラトン・アカデミー の基礎を作り、人文主義者 マルシリオ・フィチーノ にプラトン全集 の翻訳を行わせたことで、ルネサンス期にネオプラトニズム (新プラトン主義)を刻印した。
1464年夏、郊外の別荘で逝去。メディチ家当主は子のピエロ が継承する。
出典
参考文献
関連項目