ハンターは1788年初頭に、パラマタ川の探検のための遠征を率いた。この遠征は探検とパラマタ川の水深測定が目的で、パラマタ川沿いのアイアン・コーブ、ファイブドック湾、ヘンアンドチキン湾(英語版)に向かった。この探検は大きな意味を持った、それというのも、イギリス人とオーストラリア原住民が初めて出会ったのが、ワンガル族(英語版)が所有していたこの地であったからだ。1788年2月5日のことだった。ウィリアム・ブラッドレー(英語版)の航海日誌によれば、この原住民との接触はハンターが朝食を摂っている時のことで、それがこの郊外地の名前、ブレックファスト・ポイント(英語版)として残されている[5]。ディクソン調査図書館にはこの遠征隊の地図の写しがあり、『シリウス号艦長ジョン・ハンターによる探検としての、ボタニー湾、ポート・ジャクソン、そしてブロークン湾の海岸と港の地図』(Chart of the coasts and harbours of Botany-Bay, Port-Jackson and Broken-Bay, as survey'd by Capt.n John Hunter of H.M.S. Sirius. )という見出しがつけられている[6]。
ノーフォーク島の監獄跡
ハンターは1788年の10月、ケープタウンに物資を取りに行く命令を受けた。ホーン岬を回って喜望峰へ向かい、1789年にニューサウスウェールズへ戻った。ハンターは世界を一周したことになる。この航海は艦に漏れが生じたためかなり困難なものとなり、しょっちゅうポンプで水を吸い上げなければならなかった。「シリウス」はその後修理され、多くの受刑者を乗せてノーフォーク島へ派遣されたが、目的地に投錨した時に猛烈な嵐に遭って、サンゴ礁に突っ込み、座礁した[4]。乗員の多くがブリッグ船サプライ(英語版)」でポートジャクソンへ戻り、ハンターを含むそのほかのものは、救出されるまで1年近くこの島で暮らした。ハンターと乗員数名は貸し出されたワークザームハイトで、長くつらい航海の後イギリスへ戻った。1792年4月にやっとポーツマスに着き、ハンターは「シリウス」を失った廉で軍法会議にかけられたが、無罪放免された[4]。その後ハンターは、自分の関心事である『アーサー・フィリップ総督の航海本以来の、ニューサウスウェールズと南太平洋での発見、ポートジャクソン、そしてノーフォーク島における歴史的な報告の記録』(An Historical Journal of the Transactions at Port Jackson and Norfolk Island, With the Discoveries That Have Been Made in New South Wales and the Southern Ocean Since the Publication of Phillip's Voyage)の出版準備に入った。1793年の初頭に出版されたこの本は、その年の後半には短縮版が登場した。この本の初版には、オーストラリア本島とタスマニアの間に海峡が存在する可能性の、もっとも初期の言及が見出される。126頁でハンターはこう述べている。「理由があるから信じる、この地には非常に深い湾または海峡のいずれかがあり、それが多分ファン・ディーメンの島(タスマニア)とニューホランド(オーストラリア)を分け隔てている[2]。」
ハンターの苦難はシドニーに着く前から始まっていた。1793年、総督任期の終わりにフィリップがオーストラリアを去って、その後2年間軍の支配下にあったのだ。総督代理のフランシス・グロース(英語版)は囚人たちを無慈悲に自分のことでこき使い、ラム酒の取引が大々的に生じていた。この取引に関わった官僚たちは、それで大儲けをしていた。彼らは法廷を支配しており、土地、税関倉庫そして受刑者の労働の管理を手中にしていた。ハンターは、これらの権力を文民行政に戻さなければならないとさとったが、これは難しかった。そしてジョン・マッカーサーは、商業利権を情け容赦なく守るためにハンターと敵対していた。ハンターは自分が実質孤立無援であることに気付いた。仮により権力のある人物が、士官を逮捕して家に帰したとしても、仮にハンターがそうしたとしても、ハンターは恐らくウィリアム・ブライの時代に起きたラム酒の反乱のような反乱を既にこの時代に引き起こしたかもしれない。ハンターの家にまで何通もの匿名の手紙が来て、当局はハンターを、彼が阻止しようと努力している反乱に加担したかどで告発した。ハンターは自分への告発に激しく抗弁したにもかかわらず、1799年11月5日にポートランド公爵は公文書を送ってハンターを召喚した。公爵は3人の護国卿の一人だった。ハンターは1800年4月20日に、公爵に公文書を受け取ったことを知らせ、同年9月28日に、植民地政府をフィリップ・ギドリー・キングに引き渡してイギリスへ戻った。母国に戻ったハンターは、政府高官に自分が潔白であることを示そうと努力したが、なんらその機会を与えられなかった。ハンターは自らの言い分を長い冊子にまとめざるをえなくなった。これは1802年に出版され、『ハンター総督によるニューサウスウェールズ常設軍の経費の大元への批評 この経費の削減と経費乱用に打ち勝つための心得』(Governor Hunter's Remarks on the Causes of the Colonial Expense of the Establishment of New South Wales. Hints for the Reduction of Such Expense and for Reforming the Prevailing Abuses)という見出しがつけられた[1]。これは初期のオーストラリア史にとって価値のある文献となった。
^Brian K. Hall (1999-03). “The Paradoxical Platypus”. BioScience (American Institute of Biological Sciences) 49 (3): 211–218. doi:10.2307/1313511. JSTOR1313511.
The Life of John Hunter, Navigator, Governor, Admiral", Arthur Hoyle, Mulini Press, Canberra, 2001
"The HUNTER Sketchbook: Birds & Flowers of New South Wales drawn on the Spot in 1788, 89 & 90 By Captain John Hunter RN of the First Fleet", John Calaby, editor, National Library of Australia, Canberra, 1989