ツツは小学校の算数分野の試験に落第したが、それでも彼の父は1945年にツツをヨハネンスブルクのバントゥー高校に入学させた。この学校でツツは優秀な成績をあげた[23]。ラグビーユニオンのチームに参加し、それ以来生涯にわたってこのスポーツを愛した[24]。学校の外では、オレンジを売ったり、白人のゴルファーのキャディーをして金を稼いだ[25]。通学にかかる電車代を節約するため、家族と共に一時的にヨハネスブルクの近郊に住んだが、その後両親と共にマンシーヴル(英語版)に戻った[26]。ツツはヨハネスブルクに戻ってホステルに入った。このホステルはソフィアタウン(英語版)にあるクライスト・ザ・キング教会(Church of Christ the King)周辺にある聖公会の施設の一部であった[27]。ツツはこの教会で奉仕するようになり、その祭司であったトレヴァー・ハドルストン(英語版)の影響を受けるようになった[28]。1947年、ツツは結核を患い、リットフォンテン(英語版)で18か月間入院した。その間、大部分の時間を彼は読書に費やした[29]。入院した病院で彼は成人であることの証として割礼を受けた[30]。1949年、ツツは学校に戻り、1950年の後半に国家試験で高校卒業資格を取得した[31]。
大学と教師としてのキャリア: 1951-1955
医者になることを望んだツツは、医学について学ぶためウィットウォータースランド大学(英語版)への入学権を確保したが、彼の両親は授業料を支払うことができなかった[31]。そのためツツは教職に進路変更し、1951年に教師養成機関であるプレトリア・バントゥー教員養成大学(Pretoria Bantu Normal College)の課程を受講するための政府奨学金を取得した[32]。そこで彼は学生代表評議会(the Student Representative Councillor)の会計係を務め、the Literacy and Dramatic Societyの組織化を助け、文化討論協会(the Cultural and Debating Society)の会長を2年間務めた[33]。ある地方討論会の折に、ツツは弁護士で将来大統領となるネルソン・マンデラと初めて出会った。マンデラはこの時の出会いを覚えておらず、1990年まで2人が再び会うことはなかった[34]。この大学で、ツツは活動家のロバート・ソブクウェ(英語版)から試験についての助言を得て、トランスヴァール・バントゥー教師免許(Transvaal Bantu Teachers Diploma)を取得した[35]。また、南アフリカ大学(UNISA)が提供する5つの通信課程をとっており、後のジンバブエの指導者となるロバート・ムガベと同じクラスを卒業した[36]。
1954年、ツツはマディバネ高校(Madibane High School)で英語教師になった。その翌年にはクルーガーズドープ高校(英語版)に移籍して英語と歴史を教えた[37]。彼は妹の友人で小学校教師を目指して勉強していた、ノマリゾ・レア・シェンクサネ(Nomalizo Leah Shenxane)と交際するようになった[38]。彼らはクルーガーズドープ・ネイティブ・コミッショナーズ裁判所(Krugersdorp Native Commissioner's Court)で1955年7月に法的に結婚し、メアリー・クイーン使徒教会(the Church of Mary Queen of Apostles)でローマ・カトリックの結婚式を挙げた。ツツはプロテスタントであったが、ノマリゾ・レアがカトリック信徒であったため、この結婚式に同意した[39]。新婚の2人は6か月後に部屋を借りるまで、ツツの両親の部屋に住んだ[40]。2人の最初の子供、トレヴァー(Trevor)は1956年4月に生まれた[41] 。最初の娘タンデカ(Thandeka)はその16か月後に生まれた[42]。夫妻は聖パウロ教会(St Paul's Church)で礼拝を行い、ツツは日曜学校の教師、聖歌隊副指揮者[訳語疑問点](assistant choirmaster)、教会評議員[訳語疑問点](church councillor)、信徒伝道者(lay preacher)、そして助祭代理(sub-deacon)としてボランティアを行い[42]、教会以外では地元のフットボールチームの管理者としてボランティアを行った[40]。
聖職者となる:1956-1966
ツツはゴールダーズ・グリーン(Golder's Green)の聖アルバン殉教者教会(the Church of St Alban the Martyr)で初めて白人の信徒に対して聖職者として奉仕し、家族と共に牧師補(curate)の共同住宅(flat)に住んでいた。
1953年、極右の国民党政府はアパルトヘイト体制を盤石にする手段として、バントゥー教育法を導入した。ツツ夫妻はこの改革を嫌い、教職を辞めることを決めた[43]。ハドルストンの助力を得て、ツツは教師を辞職して聖公会の司祭になった[44]。1956年1月、叙階候補者組合(Ordinands Guild)へのツツの参加申請は、彼が債務を抱えていたことから拒否された。この債務は富裕な実業家であるハリー・オッペンハイマーが肩代わりして支払った[45]。ツツはヨハネスブルクのロゼッテンヴル(英語版)の聖ピーター神学校(英語版)(St Peter's Theological College)に入ることを認められた。この学校は聖公会のCommunity of the Resurrectionによって運営されていた[46]。この学校には居住区があり、ツツは妻が看護師の訓練でセククネランド(英語版)に行っている間、ここに住んでいた。また、子供たちはツツの両親と共にマンシーヴルに住んだ[47]。1960年8月、彼の妻はもう1人の娘、ナオミ(Naomi)を生んだ[48]。
キングスカレッジの神学部で、ツツはデニス・ナインハム(英語版)、クリストファー・エヴァンズ(英語版)、シドニー・エヴァンズ(英語版)、ジェフリー・パリンダー(英語版)、そしてエリック・マスコール(英語版)のような神学者の下で学んだ[60]。ロンドンでツツの一家はアパルトヘイトと、南アフリカのパス法に制約されない自由な生活の経験に感銘を受け[61]、後に「イングランドにはレイシズムがある。だが、我々はそれに晒されていない。」と書き記している[61]。一家はゴールダーズ・グリーン(英語版)の聖アルバン殉教者教会(the Church of St Alban the Martyr)裏手にある副牧師(curate)の共同住宅(flat)に移り住んだ。彼らはツツが日曜礼拝を手伝うという条件で家賃を免除してもらうことができ、これを通じて初めて白人の信徒に奉仕をした[62]。この共同住宅で1963年に娘のムポ・アンドレア(Mpho Andrea)が生まれた[63]。ツツは優秀な成績を修め、指導教員から優等学位(英語版)に変更するよう勧められた。そのため彼は優等学位に必要なヘブライ語も学んだ[64]。
ツツの新たな仕事は、当然のこととして神学訓練機関と生徒の助成金を査定することが必要であった[93]。このために、1970年代初頭、彼はアフリカの各地を周遊しなければならなかった[94]。ザイール(現:コンゴ民主共和国)で、彼は広範な腐敗と貧困に嘆き、モブツ・セセ・セコに「軍事政権は...極めて腐敗し南アフリカよりも酷い。」と文句をつけた[95]。ナイジェリアでは、彼は初めて現実の生活の中でキリスト教徒とイスラーム教徒が交流している様子を目撃し、またビアフラ共和国が崩壊したことへのイボ族の恨みに懸念を表明した[96]。1972年、彼は東アフリカ周辺を旅した。そこで彼はジョモ・ケニヤッタのケニア政府から強い感銘を受け、イディ・アミンのウガンダにおけるアジア人の追放を目の当たりにした[97]。イングランドに戻り、彼は見知らぬ人にウガンダからの南アジア系難民と勘違いされ「クソ野郎が、ウガンダに帰れ。(You bastard, get back to Uganda)」という言葉を浴びせられた。これはツツがイギリスでレイシストに遭遇したわずかな経験の1つであった[98]。ツツはまた、自身も潜在的に反黒人の人種差別的思考を持っていることを認識した。ナイジェリアの飛行機に乗った時、操縦士と副操縦士が2人とも黒人であることを知った後、彼は「不安がおさまらない(nagging worry)」のを感じた。白人だけにそのような地位と責任を委ねることができると考えていたのである[99]。
ツツの首席司祭としての任期は7年間の予定であったが、彼は7か月でレソト主教(英語版)の選挙にノミネートされた[119]。ツツはその地位を望んでいなかったが、それとは無関係に1976年3月にレソト主教に選出された。彼は不本意ながらこの人事を受諾した[120]。この決定は彼の信奉者(congregation)たちを動揺させた。彼らは自分たちの教区をツツが個人的キャリアアップのための足掛かりとして利用したと感じていた[121]。7月、ビル・ブルネット(英語版)は聖メアリー大聖堂においてツツを主教に任命した[122]。8月、ツツはレソトの首都マセルの聖メアリー・聖ジェームズ大聖堂(英語版)の式典でレソト主教に就任した。この式典には国王モショエショエ2世および首相レアブア・ジョナサンを含む数千人が出席した[122]。レソト主教としてツツは主教区を巡行し、しばしば山中にある教区も訪れていた[123]。彼はソト語を学び、この国への愛着を深めた[124]。彼はフィリップ・モククをこの主教区の初代首席司祭に任命し、バソト人聖職者への継続教育に最大の重点を置いた[125]。彼は王家と親しく交際したが、ジョナサンの右翼政権は支持しておらず、そちらとの関係は緊張したものになった[126]。1977年9月、彼は東ケープ州で行われた黒人意識運動の活動家スティーヴ・ビコの葬儀に招かれ、スピーチをするために南アフリカに戻った。ビコは拘留中に警察によって殺害されていた[127]。葬儀の席でツツは、黒人意識は「神の御業です。神はスティーヴを通じて、黒人が彼自身の本質的価値(intrinsic value)と、神の子としての価値(worth as a child of God)に目覚めることを望んだのです。」と述べた[128]。
ツツはジョン・リース(John Rees)の後任として南アフリカ教会協議会(英語版)(SACC)の事務総長(general secretary)にノミネートされたが、結局ジョン・ソーン(John Thorne)が選出された。だが、ソーンは3か月後その地位を辞任し、ツツがもう一度ノミネートされ、今度は選ばれた。ツツは受諾を迷ったが、主教会議(synod of bishops)の強い要請によりこれを受諾した[130]。彼のこの決断は、レソトの聖公会信徒に怒りをもって迎えられた[131]。ツツは1978年3月にSACCの実権を握った[132]。ツツはヨハネスブルク(ここにSACCが本部を置くコツォ・ハウス(英語版)がある[133]。)の、かつてのオルランド・ウェストの家に戻った。この時は匿名の外国人による寄付でこの家が購入された[134]。ノマリゾ・レアは南アフリカ人種関係研究所(英語版)のアシスタント・ディレクターとして職を得た[135]。ツツはSACCの初めての黒人指導者であり[136]、この時点では、SACCは黒人が多数派を占めるごくわずかな南アフリカのキリスト教機関の1つであった[137]。彼はSACCで、日々の職員の祈り、定期的な聖書の学習、月次の正餐、瞑想(silent retreats)を導入した[138]。また、新しいスタイルの指導力を発達させ、イニシアティヴを取ることに長けた上級の(senior)スタッフを任命し、SACCの細かい作業の多くを彼らに委任するとともに、会議と覚書を通じて彼らとの連絡を維持した[139]。彼のスタッフの多くが彼を「Baba(お父さん)」と呼んでいた[140]。彼はSACCを南アフリカで最も目立つ人権主張団体にすることを決断した。これは政府の逆鱗にふれるであろう方向性であった[136]。彼の努力は国際的に有名となり、1978年にはキングス・カレッジ・ロンドンが彼をフェローに選出し、ケント大学とニューヨークのGeneral Theological Seminaryも名誉博士号を授与した。翌年にはハーバード大学もまた、彼に名誉博士号を授与した[141]。
SACCの首脳としてのツツは資金調達にほとんどの時間を費やし、特にSACCの様々なプロジェクトのために海外から資金を確保しようと試みた[140]。この間、SACCの部門役員たちの1人が資金を横領していたことが明らかとなった。1981年11月、この問題を調査するため、裁判官C .F .エロッフ(C. F. Eloff)率いる全員が白人の政府委員会が立ち上げられた[142]。ツツは証拠をこの委員会に提出し、調査中にアパルトヘイトは「邪悪(evil)」であり「非キリスト教的(unchristian)」であると非難した[143]。エロッフの報告書が公表されたとき、ツツは特に委員会に神学者が1人も参加していないことに焦点をあて、(イギリスの園芸展の)チェルシー・フラワー・ショーを「盲人の審査団(a group of blind men)」に審査させるようなものだとそれを非難した[144]。ツツはまた牧師の仕事に復帰したいと考え、1981年にはソウェトのオルランド・ウェストの聖オースティン教会(St Augustine's Church)の教区牧師(rector)になった[145]。また、彼は自身の説教とスピーチの収集を始めた。これは1982年に、『Crying in the Wilderness: The Struggle for Justice in South Africa』というタイトルで出版された[146]。続いて1984年には『Hope and Suffering』という別の集成が出版された[146]。
ツツが1984年のノーベル平和賞を受賞したことを知らされたのは、このニューヨーク滞在の間であった。彼は以前にも1981年、1982年、1983年にノミネートされていた[179]。1984年の受賞者を決めるためノーベル賞選考委員会が集まった時、彼らは南アフリカの問題への認識を高めるため同国出身者に賞を贈るべきであると合意し、ツツは他の南アフリカ人の候補者であるネルソン・マンデラやマンゴスツ・ブテレジよりも議論の余地が少ないと判断した[180]。ツツはロンドンを訪れ、南アフリカの「一般市民(the little people)」にこの賞を捧げるという公式声明を発表した[181]。12月、彼はノルウェーの首都オスロで開かれた授賞式に出席し、スウェーデン、デンマーク、カナダ、タンザニア、ザンビアを経由して帰国した[182]。彼は192,000ドルの賞金を、家族、SACCのスタッフ、亡命中の南アフリカ人のための奨学基金と分かち合った[183]。彼は1960年のアルバート・ルツーリに続く2人目の南アフリカ人のノーベル平和賞受賞者である[149]。南アフリカ政府と、主流の報道機関はそれぞれこの賞を軽視したり、非難したりし[184]、アフリカ統一機構は、これはアパルトヘイトの崩壊が差し迫っている証であるとして歓迎した[185]。
ケープタウン大主教(英語版)フィリップ・ラッセル(英語版)が、自身の退任を1986年2月に発表した後、Black Solidarity Groupはツツを後任として擁立する計画を立てた[207]。この会議の当時、ツツはジョージア州アトランタでマーティン・ルーサー・キング2世平和賞を受賞していた[208]。ツツの名前はマイケル・ナッター(英語版)と共に並べられたが、両者ともこのノミネートについての戸惑いを表明した。投票において、ツツは聖職者たちと信徒たちの3分の2の票を確保し、その後主教会議で全会一致で承認された[209]。ツツはケープタウン大主教としても最初の黒人であった[210]。一部の白人聖公会信徒は、彼の選出に抗議してこの教会を去った[211]。聖ジョージ殉教者大聖堂(the Cathedral of St George the Martyr)での叙任式には、1,300人以上の人々が列席した[212]。式の後、ツツはグッドウッド(Goodwood)にあるケープ・ショーグラウンド(the Cape Showgrounds)で、10,000人の野外聖餐を執り行い、その場にアルバーティーナ・シスル(英語版)とアラン・ボエサク(英語版)を政治的演説のために招いた[213]。大主教になると彼はこの地位のために用意されたビショップスコート(英語版)の公邸に移った。彼のこの行動は違法であった。なぜならば、国家が「白人地区(white area)」と定めた地域に居住する公的許可を求めなかったからである[214]。彼はこの家を改装するための資金を教会から取得し[215]、その隣地に子供たちの遊び場を設置し、ビショップスコートに水泳用プールを開いて、どちらも教区民に解放した[216]。ツツはビショップスコートでInstitute of Christian Spirituality(英語版)を設立するためイギリスの司祭(priest)フランシス・カル(英語版)を招いた。その後Institute of Christian Spiritualityはツツの家の敷地内の建物に移動した[217]。これらのプロジェクトにより、ツツの聖職者としての職務[訳語疑問点]のための経費が聖公会予算の大部分を占めるようになっていき、ツツは海外からの寄付の呼びかけを通じて予算拡大を希求した[217]。一部の聖公会信徒たちは、ツツの浪費に批判的であった[218]。
大主教としてのツツの業務は、彼の政治的行動主義と定期的な海外行脚とも相まって、膨大な作業量となった。ツツはこれを執行役員ンジョンゴンクル・ンドンガネ(英語版)とナトール(Nuttall)の助けを借りて管理した。ナトールは1989年にはケープ州の首席司祭(dean)に選出された[219]。教会の会合で、ツツは合意形成を促すリーダーシップモデルを採用することで、多数決ではなく全会一致による決定という伝統的なアフリカの習慣を引き出し、教会内の競合するグループの妥協を確実なものにしようとした[220]。彼は聖職から女性を排除することをアパルトヘイトに例えて批判し、聖公会で女性を聖職者にすることを認めさせた[221]。彼はまた、上級聖職者にゲイの男性を任命したほか、当時はまだ公に発言することはなかったものの、同性愛者の司祭に禁欲を求める教会は非現実的だと個人的に非難した[222]。ボエサクとスティーヴン・ナイドゥー(英語版)と共に、ツツは黒人の抗議者たちと治安部隊の間の衝突の仲介に取り組む教会指導者の1人となった。実例としては、1987年のANCゲリラアシュリー・クリエル(英語版)の葬儀での衝突を回避するために行動した[223]。1988年2月、政府はUDFを含む17の黒人、および人種混合組織を禁止し、労働組合の活動を制限した。教会指導者たちは抗議行進を組織したが、それも禁止された後、Committee for the Defense of Democracyを組織した。これらのグループの結集が禁止されたとき、ボエサクとナイドゥーは聖ジョージ大聖堂でこれに代わる儀式を組織した[224]。
ツツは政府に対する市民的不服従行為に関わり続けていた。この行為には多くの白人たちもまた参加し、このことにツツは励まされた[234]。1989年8月、彼は聖ジョージ大聖堂で「Ecumenical Defiance Service」を組織し[235]、すぐ後にはケープタウンの人種隔離が行われているビーチでの抗議に参加した[236]。UDF設立6周年を記念してツツは聖ジョージ大聖堂で「service of witness」を行い[237]、9月には治安部隊との衝突で殺害された抗議者を記念した行事を執り行った[238]。彼はケープタウン全域にわたる抗議行進を組織し、新しい大統領フレデリック・ウィレム・デクラークはこれに許可を与えることに同意した。これには様々な人種を含む推定30,000人の人々が加わった.[239]。この抗議行進が許可されたことに触発されて、南アフリカ全土での同様のデモが行われた[240]。10月、デクラークはツツ、ボエサク、フランク・シケーネ(英語版)と面会した。ツツはこれに「我々は耳を傾けられた」と感動した[241]。1994年、ツツの更なるツツの著作集「The Rainbow People of God」が出版され、それに続き翌年にはアフリカ大陸全土からの祈りにツツの解説を添えた「An African Prayer Book」が出版された[146]。
多くの別の活動家たちのように、ツツはANCとインカタの間の緊張を煽り立てる「第3の力(英語版)」があると考えていた。後に、情報機関がANCの交渉上の立場を弱めるため、インカタに武器を補給していたことが明らかになった[255]。ANC指導層の幾人かと異なり、ツツはこれらに対するデクラークの個人的な加担を非難したことはなかった[256]。1990年10月、ツツはビショップスコートで教会指導者たちとANC、PAC、AZAPOなどの政党指導者たちが参加する「サミット」を開催し、彼らに対し、自らの支持者に暴力の回避と自由な政治活動を許容するよう呼びかけるように促した[257]。南アフリカ共産党(英語版)の指導者クリス・ハニ(英語版)は白人によって暗殺され、ツツはソウェトの外で行われたハニの葬儀で説教師(preacher)を務めた。ツツはハニのマルクス主義的信念に反対していたが、それでも活動家としてのハニを賞賛した[258]。これらの出来事の中、ツツは肉体的な疲労と病気が重なり[259]、アメリカのジョージア州アトランタのエモリー大学のキャンドラー神学校(Candler School of Theology)で、4か月間の長期休暇を取った[260]。
ツツは南アフリカが人種的内戦ではなく交渉による移行を通じて、普通選挙制に向けて変化しているという見通しによって気分を高揚させていた[261]。彼は南アフリカ人の投票を促すポスターに彼の顔を使用することを許可した[262]。1994年の全人種選挙(英語版)が実施された際、ツツは感極まって、記者に「我々はとても幸福だ(we are on cloud nine)」と語っている[263]。彼はケープタウンのググレツ(英語版)タウンシップで投票した[263]。この選挙はANCが勝利し、マンデラが大統領であり、国家統合政府の形成を監督すると宣言された。ツツはマンデラの大統領就任式に出席し、その宗教的部分に責任を持った。ツツはその式典を、キリスト教徒、イスラーム教徒、ユダヤ教徒、そしてヒンドゥー教徒の指導者たちが祈りと講読に参加する多宗教の式典にするべきだと主張した[264]。
その後の人生
ツツ(2009年)
1994年10月、ツツは1996年に大主教を辞めるつもりであることを公表した[146]。通常、大主教を辞任した後は主教に戻るものであったが、他の主教たちは彼に新たな称号、「名誉大主教(archbishop emeritus)」を授与した[265]。辞任式(A farewell ceremony)は、聖ジョージ大聖堂で1996年6月に執り行われ、マンデラやデクラークのような主要政治家が出席した[265]。マンデラはこの席で南アフリカ最高の勲章であるOrder for Meritorious Service(英語版)を授与した[265]。ツツの大主教位はンドンガネによって引き継がれた[266] 。
南アフリカにおける自身の存在が、新しい大主教であるンドンガネの存在を覆い隠す可能性を意識して、ツツは2年間客員教授としてアメリカのエモリー大学で勤めることに同意した[266]。この任期は1998年から2000年までであり、この間に彼は真実和解委員会(英語版)(TRC)についての書籍、『No Future Without Forgiveness』を執筆した[271]。2002年初頭、彼はマサチューセッツ州ケンブリッジのEpiscopal Divinity Schoolで教鞭をとった[270]。2003年1月から5月まではノースカロライナ大学で教鞭をとった[270]。2004年1月、彼は「母校」キングスカレッジで紛争後の社会(postconflict societies)の客員教授を務めた[270]。アメリカにいる間、彼は講演者の代理店と契約し、講演の仕事のために広範囲を旅した。これは彼の牧師年金(clerical pension)だけでは望めなかったような経済的自立をもたらした[266]。彼のスピーチの中では、南アフリカがアパルトヘイトから普通選挙制へ移行したことに焦点があてられ、他の苦しんでいる国家が採用すべきモデルとして提示された[272]。アメリカでは、反アパルトヘイト活動家に制裁のキャンペーンについて感謝し、またアメリカ企業に現在の南アフリカへ投資するように呼び掛けている[273]。
真実和解委員会: 1996-1998
1994年にアフリカ民族会議が政権を取って以降のアパルトヘイト後の南アフリカ(英語版)に対して虹の国(英語版)というメタファーを作り出したのはツツだと一般に信じられている。この表現はこれ以来、南アフリカの民族多様性を表す言葉としてメインストリームの意識の中に加わった[274]。彼はこのメタファーを、多人種の抗議者たちを指す「神の虹の民(rainbow people of God)」という表現の中で1989年に初めて使用した[275]。ツツは解放派神学者(liberation theologians)が「批判的連帯」(critical solidarity)と呼ぶ立場を唱道した。すなわち、民主化勢力諸派に支援を行うと同時に、彼らへの批判をためらわなかった[261]。彼は、派手な色(brightly coloured)のマディバ・シャツ(英語版)(ツツはこれを不適切な服装と見做した)の着用のようないくつかの点でマンデラを批判し、マンデラは冗談半分に、ドレスを着る男からそんなことを言われるとは皮肉なことだと返した[276]。より深刻なツツの批判は、マンデラが南アフリカのアパルトヘイト時代の軍事産業との関係を維持していたことと、新たに選出された国会議員への多額の報酬についてのものであった[277]。マンデラはツツを「ポピュリスト」と呼んでやり返し、ツツはこうした批判を公然とするのではなく個人的に提起すべきだと主張した[276]。
マンデラは真実和解委員会の委員長にツツを、ボレーヌを副委員長(his deputy)に任命した[282]。真実和解委員会は重要な事業であり、300人以上のスタッフを雇用し、3つの小委員会(committees)に分かれ、同時に4つまでの聴聞会を開催した[283]。真実和解委員会の中で、ツツは「修復的司法(restorative justice)」を提唱した。彼はこれを伝統的なアフリカの法学の特性である「ウブントゥ(ubuntu)の精神の中で」捉えていた[284]。委員会の長として、ツツは、反アパルトヘイト活動家であった委員とアパルトヘイト制度を支持していた人々の間の多数の疑惑とともに、数々の個人間の問題に対処せねばならなかった[285]。ツツは「我々はオペラの主演女優の集団(bunch of prima donnas)のように自意識過剰で、多くの場合過敏であり、侮辱を受けると、それが実際の侮辱であれ、ただそう受け取っただけであれ、簡単に立腹した」ことを認めた[286]。ツツは祈りと共に会議を開き、真実和解委員会の業務について議論する際にはしばしばキリストの教えに言及したため、明確に世俗的な組織の中にあまりにも多くの宗教的要素を入れることに批判的な人々を苛立たせた[286]。
2003年、彼はノースフロリダ大学に在籍する学者であった[306]。2月には、彼はアメリカのイラク戦争計画に反対するニューヨークのデモに参加した。この行動は、南アフリカに関係しない抗議行動に参加しないという彼の一般的信条を破るものであった[307]。ツツはコンドリーザ・ライスに電話をかけ、アメリカ政府が国連安保理の決議なしに開戦へと向かわないように促した[308]。
ツツはイラク戦争開戦以来断固たる反対論者であり、この戦争は「歴史上の他のあらゆる紛争よりも大きな規模で、世界を不安定化させ分裂させた。」と述べた。2012年9月、ツツはアメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュとイギリス首相トニー・ブレアが、この紛争で果たした役割について国際刑事裁判所で審理に掛けられるべきだと訴え、彼らに「自らの行動の責任を取らせる」べきだと述べた[309]。ツツはヨーロッパ、インド、パキスタンにもまた多くの大量破壊兵器が存在するのに、なぜイラクだけが選び出されたのかと疑問を投げかけた[310]。2012年、ツツはブレア前首相のイラク攻撃という「道徳的に弁解の余地がない」決定に触れ、ブレアが登場する予定だった南アフリカでのイベントから手を引き[311]、彼に戦争犯罪の疑いで、ハーグでの裁判に臨むよう呼びかけた[312]。2007年、ツツは人々が絶望的な条件で生きているならば、世界での「テロとの戦い(war on terror)」に勝利することはできないと述べた[313]。2004年、ツツはニューヨーク市のオフ・ブロードウェイの、『Guantanamo - Honor-bound to Defend Freedom(英語版)』という劇の公演に出演した。この劇はグアンタナモ湾におけるアメリカの拘留者の扱いを強く批判するものであった。ツツは拘留制度の法的正当性に疑問を持つ裁判官ジャスティス・ステイン卿の役を演じた[314]。2005年1月、彼はキューバのグアンタナモ湾にあるCamp X-Ray(英語版)でのテロ容疑者拘留に対する異議を表明し、ここで行われている裁判なしの拘留は「全く認められず」、これはアパルトヘイト時代の拘留と同種のものであると述べた[315]。彼はまたイギリスが裁判なしで28日間テロリストを拘留する制度を導入したことも非難した[316]。
2007年、ツツは、世界で最も困難な諸問題に取り組むために、知恵、慈愛、リーダーシップ、誠実さを提供する世界の指導者たちのグループである、The Elders(英語版)の議長であることが宣言された[330]。ツツは2013年5月までこの職務で手腕を振るった。辞任し、名誉エルダー(Honorary Elder)となると、彼は「議長としての素晴らしい6年間の後、辞任すべき時が来たと告げるのは悲しいが、エルダーとして、我々は常に終身の指導者に反対すべきである。」と述べた[331]。ツツはThe Eldersを率いて2007年10月に(このグループが創設されてから最初のミッションとして)ダルフール危機の和平を促進するため、スーダンを訪問した。ツツは「我々の望みは、我々がダルフールにスポットライトを当て続け、この地域で平和を維持するために政府を支援することである。」と述べた[332]。彼はまた、Eldersの代表団と共に、コートジボワール、キプロス、エチオピア、インド、南スーダン、そして中東を訪れた[333]。ツツは特にThe Eldersが提案した児童結婚についてのイニシアティヴに関与し、「Girls Not Brides:児童結婚を終わらせるためのグローバル・パートナーシップ」を立ち上げるため、2011年9月にニューヨークのクリントン・グローバル・イニシアティヴに参加した[334]。
2007年、ツツは南アフリカのジンバブエ大統領ロバート・ムガベの政府に対する「静かな外交(quiet diplomac)」政策を批判し、南部アフリカ開発共同体に、ムガベのジンバブエ・アフリカ民族同盟愛国戦線(英語版)と反政府の民主変革運動(英語版)の間で対話を行うことと、この行動の明確な期日(firm deadlines)を定めること、これがなされない場合には強硬な手段を取ることを呼びかけた[335]。2008年、彼は国際社会にジンバブエに介入するよう、さらに必要に応じて軍事的手段を取るよう呼びかけた[336]。一方のムガベはツツを「怒りっぽい、邪悪で敵意に満ちた小主教(angry, evil and embittered little bishop)と呼んでいる[337]。
2008年のチベット騒乱の間、ツツはダライラマ14世を称え、中国政府は「(彼の)声を聴くべきだ...これ以上の暴力を止めよという声を。」と発言した[338]。彼は後にある集会において、「美しいチベットの人々の繁栄のため」に、2008年北京オリンピックの開会式に出席しないように世界各国の首脳に呼びかけた[339]。ダライラマ14世は2011年10月7日に開かれたツツの80歳のバースデイパーティに出席するためのビザを南アフリカに拒否された[340][341]。
公職引退後:2010-2021
COP17でのツツ。「We Have Faith: Act Now for Climate Justice Rally」。2011年11月27日、南アフリカのダーバンにて
2010年10月、ツツは「家族と共に家で過ごし、読書と著述と祈りと思索」により時間を使えるようにするため、公的生活からの引退を公表した[342]。2012年11月、ツツはマイレッド・コリガン・マグワイアとアドルフォ・ペレス・エスキベルと共に、アメリカの内部通報者ブラッドリー・マニングを支援する書面を公表した[343]。2014年7月、彼は死の幇助の合法化支援のために出て来て、命は「いかなるコストを払ってでも(at any cost)」保持されるべきものではなく、死の幇助の犯罪化は末期状態の病気を患う人から「人間の尊厳に対する権利(human right to dignity)」を奪うと述べた[344][345][346]。2013年5月、ツツはANCが「抑圧からの解放の闘争の中で我々を非常に良く導いた」と同時に、南アフリカの不平等、暴力、腐敗に対抗するには貧弱な仕事をしてきたとして、もはやANCに投票する意思がないことを公表した。彼は南アフリカ政府のダライラマ14世へのビザ発行遅延を鋭く批判し、政府の「中国への三拝九拝(kowtowing to China)」を非難した[347]。ツツは、ネルソン・マンデラはアフリカーナーがマンデラの死を追悼する記念礼拝から排除されたことで幻滅するだろうと述べた[348]。ツツは初めマンデラの葬儀には公式に招待されていないと主張していたが(ANC政権はこれを否定している)、後には出席の意思を表明した[349]。2015年12月、ツツの娘、ムポ・ツツ(Mpho Tutu)が女性であるマーセライン・ファン・フュルト(Marceline van Furth)と結婚した[350]。ツツは彼の娘と、パートナーとの結婚に祝福を贈ることができた[351]。2017年8月、ツツは2011年から2012年にかけての抗議運動に参加したサウジアラビアの14人の若者の処刑を止めるよう促したノーベル平和賞受賞者たちの中に加わった[352]。同年9月にはツツはノーベル平和賞受賞者仲間のアウン・サン・スー・チーにミャンマーにおけるムスリム迫害(英語版)を停止するように求めた[353]。同年12月、アメリカ大統領ドナルド・トランプが、パレスチナ人の反対にもかかわらずエルサレムがイスラエルの首都であることを公認する決定を下したことを非難し、神がトランプの決定に泣いていたと発言した[354]。
彼はクリケットのファンであり[129] 、彼のお気に入りの食べ物はサモサ、ファット・ケーキ(fat cake、揚げ菓子)、ヨギ・シップ(Yogi Sip、ヨーグルト飲料)である[129]。ホストがツツの食事の好みについて尋ねた時、彼の妻は「5歳児が好むような物を考えてください(think of a five year old)」と答えた[365]。リラックスするためには、クラシック音楽の観賞を楽しんだり、政治や宗教に関する本を読んだりした[366]。ギッシュは「ツツの声と発言は聴衆を明るくすることができた。禁欲的であったり、ユーモアに欠けたことはなかった。」と書いている[367]。ツツは毎朝午前4時に目覚め、職務の前に早朝の散歩を行い、祈り、聖餐(Eucharist)をする[368]。金曜日には、夕食まで断食をした[369]。また、聖書を毎日読んでいる[370]。ツツは聖書を毎日読み、人々にそれを一字一句に従う[訳語疑問点]のではなく、複数の書物の集成として読むことを勧め、「聖書は多数の書物からなり、それらは要素ごとに異なるカテゴリーを持っている[訳語疑問点]」ことを理解しなければならないと発言した。
「聖書の中には否定しなければならない箇所もいくつかある。聖書は奴隷制度を認めていた。聖パウロは女性は教会で一切話すべきではないと言ったし、それを引き合いに出して女性を聖職者に任命すべきでないといっていた人たちもいる。受け入れるべきではないことが数多くある。」[370]。
ツツは、ホロコーストに対する赦しの重要性をその後も説いており、『赦しなくして未来なし(No Future without Forgiveness)』と題する1999年の著作においても、ユダヤ人の心情に理解を示しつつも、未来のために異なる道を模索することを呼びかけている[402]。また、ホロコーストにおいて「殺されてしまった人の代わりに他人が赦す権利などない」とする反論に対し、その意見の正当性を認めつつも、生き残ったユダヤ人が死者に代わってナチを赦せないなら、なぜ死者が受け取るべき賠償金を代わりに受け取っているのか、とユダヤ人の取り組みの矛盾をも指摘した[402]。
ツツは自身を社会主義者であると説明し、1986年にはこれに関連して「私のこれまでの経験が示唆するところでは、資本主義は人間の最悪の特徴のいくつかを駆り立てるようだ。食うか食われるか。資本主義は適者生存によって規定されている。私には受け入れがたい。それは資本主義の醜い一面に過ぎないかもしれないが、しかし私は他の面を見たことがない。」と述べている[415]。また彼は1980年代に「アパルトヘイトは自由企業制の評価を損なった」と発言したと伝えられた[416]。ツツはしばしば、「アフリカ共産主義(African communism)」は矛盾である、何故なら(彼の見解では)アフリカ人は本質的に宗教的(spiritual)であり、マルキシズムの無神論と相いれないからだ、というアフォリズムを用いた[417]。彼はソヴィエト連邦と東側諸国のマルキスト政権を非難し、彼らの人々への取り扱い方を南アフリカの国民党のそれと対比した[393]。1985年に彼は共産主義を「全身全霊をもって(with every fiber of my being)」嫌悪していると述べたが、南アフリカの黒人がそれを同盟者にした理由を「あなたが地下牢にいる時、解放の手が差し伸べられたならば、あなたがその手の持ち主の出自を問うことはない」として説明しようとした[418]。
ツツは数多くの国際的な賞と名誉学位を、特に南アフリカ、イギリス、アメリカから授与されている[270]。2003年までに、彼はおよそ100の名誉学位を保持していた[436]。多くの学校と奨学金に彼の名前が付けられている[270]。例えば、2000年にはクラークスドープのマンシーブル図書館(Munsieville Library)がデズモンド・ツツ図書館と改名された[270]。フォート・ヘア大学では、デズモンド・ツツ神学校(the Desmond Tutu School of Theology)が2002年に開校した[270]。
ウィーンのプロテスタント神学部(The Faculty of Protestant Theology)でのツツ
1984年10月16日、当時主教であったツツはノーベル平和賞を受賞した。ノーベル委員会はこの理由として「南アフリカにおけるアパルトヘイトの問題を解決するための運動における統一的指導者としての役割」を挙げている[437]。これはツツと、当時ツツが指導していた南アフリカ教会協議会(The South African Council of Churches)への支持のジェスチャーであるとみなされた。1987年、ツツはパーチェム・イン・テリス賞を受賞した[438]。これは1963年のヨハネ23世による、全ての国家の平和を確保することを、全ての善意の人々に呼びかける回勅の書簡「パーチェム・イン・テリス」から命名されたものである[439]。
Allen, John (2007-10) (英語). Rabble-Rouser for Peace: The Authorised Biography of Desmond Tutu. London: Rider. ISBN978-1-84-604064-1
Gish, Steven D. (2004-10) (英語). Desmond Tutu: A Biography. Greenwood Biographies. Westport, Connecticut and London: Greenwood Press. ISBN978-0-3133-2860-2