座標: 北緯42度04分 東経48度17分 / 北緯42.067度 東経48.283度 / 42.067; 48.283
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デルベントのシタデル、古代都市及び要塞建築物群 (ロシア) |
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デルベントのシタデル |
英名 |
Citadel, Ancient City and Fortress Buildings of Derbent |
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仏名 |
Citadelle, vieille ville et forteresse de Derbent |
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登録区分 |
文化遺産 |
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登録基準 |
(3),(4) |
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登録年 |
2003年 |
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公式サイト |
世界遺産センター(英語) |
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使用方法・表示 |
デルベント(Derbent、ロシア語: Дербе́нт、アゼルバイジャン語: Дәрбәнд/Dərbənd、レズギ語: Кьвевар、タバサラン語:Деребенд)は、ロシア・ダゲスタン共和国にある都市である。ロシア最南端の都市であり、ダゲスタン共和国第2の都市でもある。人口は101,031人(2002年国勢調査)である。アゼルバイジャン人が最も多く、レズギ人、タバサラン人がそれに続く。
アレクサンドロスの門(en)の伝説が残る都市であり、デルベントはロシア最古の都市と言われる。2003年にUNESCOの世界遺産に「デルベントのシタデル、古代都市及び要塞建築物群」の名前で登録された。
地理
現在のデルベントの町はカスピ海の西岸に位置し、タバサラン山頂からの傾斜面に位置する。デルベントは交通の便がよく、港湾施設を持ち、アゼルバイジャンの首都であるバクーとは鉄道とロストフ・ナ・ドヌ道路で結ばれている。
デルベントの経済の中心は、食品、織物、漁業、木工品などが挙げられる。また、ロシアにおけるブランデー生産の中心でもある。
自然
気候
気象
デルベントの気候
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月 |
1月 |
2月 |
3月 |
4月 |
5月 |
6月 |
7月 |
8月 |
9月 |
10月 |
11月 |
12月 |
年
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最高気温記録 °C (°F)
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15.3 (59.5)
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26.6 (79.9)
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28.3 (82.9)
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34.2 (93.6)
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30.1 (86.2)
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34.6 (94.3)
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35.8 (96.4)
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38.8 (101.8)
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33.0 (91.4)
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28.0 (82.4)
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21.9 (71.4)
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27.6 (81.7)
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38.8 (101.8)
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平均最高気温 °C (°F)
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5.5 (41.9)
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5.3 (41.5)
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8.2 (46.8)
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14.3 (57.7)
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20.3 (68.5)
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26.1 (79)
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29.1 (84.4)
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28.9 (84)
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24.2 (75.6)
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18.2 (64.8)
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11.9 (53.4)
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7.5 (45.5)
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16.6 (61.9)
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日平均気温 °C (°F)
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3.1 (37.6)
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2.8 (37)
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5.6 (42.1)
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11.0 (51.8)
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16.7 (62.1)
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22.3 (72.1)
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25.3 (77.5)
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25.2 (77.4)
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20.7 (69.3)
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15.0 (59)
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9.3 (48.7)
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5.0 (41)
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13.5 (56.3)
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平均最低気温 °C (°F)
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0.7 (33.3)
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0.4 (32.7)
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3.0 (37.4)
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7.7 (45.9)
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13.1 (55.6)
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18.4 (65.1)
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21.6 (70.9)
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21.4 (70.5)
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17.2 (63)
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11.8 (53.2)
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6.6 (43.9)
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2.6 (36.7)
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10.4 (50.7)
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最低気温記録 °C (°F)
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−12.5 (9.5)
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−17.9 (−0.2)
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−9.0 (15.8)
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−3.1 (26.4)
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4.2 (39.6)
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11.0 (51.8)
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12.9 (55.2)
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10.7 (51.3)
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5.1 (41.2)
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0.4 (32.7)
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−8.3 (17.1)
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−12.1 (10.2)
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−17.9 (−0.2)
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降水量 mm (inch)
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26.2 (1.031)
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39.1 (1.539)
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24.5 (0.965)
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19.7 (0.776)
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24.4 (0.961)
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16.1 (0.634)
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22.5 (0.886)
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26.2 (1.031)
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50.4 (1.984)
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56.3 (2.217)
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48.8 (1.921)
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44.5 (1.752)
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398.7 (15.697)
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出典:Погода Дербент
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歴史
デルベントはコーカサス地方において戦略的に重要な場所に位置している。カスピ海とコーカサスの山々との間では、幅が3キロメートルしかない。
歴史的にデルベントは、ユーラシア草原と中東を結ぶ交通の要衝であったため、様々な民族の衝突の舞台となってきた。
デルベントにおける最初の住居は、紀元前8世紀に遡る。紀元前6世紀には、ペルシャの王によって支配されていた。紀元前4世紀までには、カフカス・アルバニア人(en:Caucasian Albania)が建国した国の首都として機能していた。現在のデルベントの名前の由来はペルシャ語の「閉じられた門」に由来する。5世紀の終わりかあるいは6世紀の始まりには使用されるようになっており、この頃は、サーサーン朝の皇帝カワード1世によって統治された時代であった。
カワード1世の子供であるホスロー1世の時代に、デルベントの北を臨む監視塔を備えた高さ20メートルの城壁が建設された。アルメニア人の7世紀の歴史家であるモヴセス・カガンカトヴァツィ(Movses Kaghankatvatsi)が叙述した年代記にも、驚嘆の言葉を添えての記述がなされている。ホスローの建設の結果、デルベントは、サーサーン朝の強固な要塞、港として機能した。5世紀から6世紀の間には、デルベントは、カフカス地方におけるキリスト教布教の拠点となった。
627年から629年の第三次ペルソ・テュルク戦争(サーサーン朝と西突厥の間で起きた戦争)において、デルベントは一旦、西突厥の支配下に置かれることとなったが、その後、ペルシャによって再度、統治されることとなった。654年には、アラブ人勢力の支配下に置かれることとなり、デルベントは東カフカス地方の行政の中心になるとともに、この地方にもイスラームが浸透することとなった。戦略上の地位のために、デルベントはシルク・ロードの北へつながる支線の出発地点となり、後にはアラブ人とハザールの間で争われることとなった(アラブ・ハザール戦争)。
アッバース朝の第8代カリフであるハールーン・アッ=ラシードは、デルベントに居住したこともあり、デルベントは、芸術と商業の中心となり、評判となった。アラブ人の歴史家の叙述によると、9世紀にはカフカス地方では最大の5万人の人口を誇る都市になったとある。カリフ制度が崩壊すると、デルベントはイスラームの首長国となり、サリル(en、現在のダゲスタン共和国に5世紀から12世紀の間存在したキリスト教国家)と争うこととなる。デルベントの首長国は、1239年のモンゴル帝国による侵攻まで繁栄した。
14世紀になると、デルベントはティムールの軍隊によって征服された。1437年には、ペルシャのシルヴァンシャー朝(en)の支配下に入った。16世紀にはサファヴィー朝とオスマン帝国との間の戦場となり、アッバース1世の時代には、トルコ軍に大きな打撃を与えたことで、デルベントはサファヴィー朝の支配下に入った。
1722年には、ロシア帝国皇帝ピョートル1世とペルシャの間で第1次ロシア・ペルシャ戦争が勃発、デルベントはロシア帝国の支配下に入ることとなったが、1736年にはナーディル・シャーの手によって再びペルシャの支配下に入った。1747年にはデルベント藩王国が創設されその首都となった。第2次ロシア・ペルシャ戦争(en)において、デルベントはヴァレリアン・ツボフ(en)が指揮するロシア軍の砲撃を受けた結果、1813年のゴレスターン条約において、ロシアとペルシャの間で平和条約が結ばれ、以後デルベントはロシア帝国に所属することとなった。
デルベントに残る城壁と監視塔の多くが、当時の姿を残している。6世紀から残る二重の城壁の長さは約40キロメートルに及び300から400メートルの距離を置いて、平行に建設された。城壁に囲まれた約45,000平方メートルの範囲が世界遺産に登録され、6世紀に建設されたキリスト教のバジリカ、8世紀に建設されたモスク、15世紀に建設されたマドラサ、19世紀に建設されたアルメニア正教の教会が存在する。
世界遺産
登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
- (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
- (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
姉妹都市
参考文献
ウィキメディア・コモンズには、
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