トーマス・ヘンリー・カーター (英語 : Thomas Henry Carter, 1854年 10月30日 - 1911年 9月17日 )は、アメリカ合衆国 ・モンタナ州 の政治家 。モンタナ準州 最後の連邦下院 代議員かつ、モンタナ州最初の連邦下院議員。1892年 には、カトリック教徒として初めて共和党全国委員会の議長に就任し、1895年 から連邦上院 議員も務めた。
経歴・人物
1854年 10月30日 、トーマスはオハイオ州 サイオト郡 ポーツマス 近郊のジュニア・ファーネスという小さな村で、アイルランド系移民 の両親のもとに生まれた[ 1] 。 両親のエドワード・カーターとマーガレット・カーター(バーンズ)は、アイルランド大飢饉 の後、1849年 か1850年 にアメリカにやてきた。エドワードはマーガレットの影響を受けてイングランド国教会 からカトリック に改宗した。長男のリチャードが生まれた1852年 には、カーター夫妻はオハイオ州ジュニア・ファーネスに定住した。1854年にトーマスが生まれた直後、一家はジュニア・ファーネスから数マイル離れた農場に引っ越した。
南北戦争 が終結した1865年 、カーター夫妻は貯金を取り崩してイリノイ州 パナに移住し、幼い、トーマスは地元の学校に通い、両親の農場で働いた[ 1] 。エドワード・カーターは子供たちに読書好き、そして学ぶことへの愛情を教え込んだ[ 2] 。成人してすぐの頃、落雷による火災で納屋が焼け、家畜が死んで農場を失ったトーマスは、鉄道の仕事や学校の教師をしていた[ 3] [ 4] 。 数年間、アイオワ州 バーリントン にある出版社で巡回セールスマンをしていた。1879年 3月に母が肺炎 で夭折すると、妹のジュリアとマーガレット、弟のエドワード・ジュニアをバーリントンに呼び寄せた。1879年3月に母親が肺炎で夭折した後、トーマスは出版社の営業部門のトップにまで昇進し、妹のジュリアとマーガレット、弟のエドワード・ジュニアをバーリントンに呼び寄せた[ 5] 。このバーリントンでの数年間、トーマスと妹たちは、トーマスが父親のように妹たちを支え、世話をしたことで、特別な絆が生まれた[ 6] 。カーターは長年法律の勉強を続け、出張先のネブラスカ州 でようやく司法試験に合格した[ 7] [ 8] 。
1882年 5月、友人の勧めでバーリントンからモンタナ州 のヘレナ に移り、そこで法律の仕事を始めることになった[ 9] 。一時的に本の販売を再開した後、ヘレナの弁護士、ジョン・B・クレイトンと法律事務所を設立した[ 10] 。ヘレナに到着してから1年も経たないうちに、トーマスはバーリントンにいた妹と弟を呼び寄せた。トーマスは、子供の頃からカトリック教会と親密な関係を築いていたが、ヘレナに来てからもその関係は続き、より信仰心を深めるようになった[ 11] 。1886年 1月27日 、トーマスはミネソタ州 セントポール の大聖堂でエレン・リリアン・ガレンと結婚した。エレンはモンタナの開拓者であるヒュー・F・ガレンとマチルダ・ギログリー・ガレンの娘であった[ 12] 。
政治家として
トーマス・H・カーター(1890年代)
トーマスの政治家人生は、ルイスアンドクラーク郡 の行政官からスタートした[ 13] 。
1888年 、カーターは共和党の下院代議会議員候補に指名された。11月に行われた総選挙では、ビュート の「カッパー・キングス[ 14] 」の一人で民主党候補のウィリアム・アンドリュース・クラーク と議席を争った。カーターは、クラークと敵対していた「カッパー・キングス」のマーカス・ダリー の協力を得て、民主党員の多いシルバーボウ 、ディアロッジ 、ミズーラ の3郡で勝利し、クラークを破った。また、クラークを嫌っていたアイルランド系有権者も、カーターの勝利に貢献したとされている[ 15] 。その後も、議員を目指すクラークと、クラークを落選させようと対立候補を支援するダリーの構図が続き、俗に「カッパー・キングス戦争」と呼ばれた。カーターが出馬した1888年選挙は二人の対立の発端になったと言われている[ 16] 。
1889年 3月4日 、トーマスは下院代議員[ 17] に就任し、モンタナ準州が州に昇格した1889年 11月7日 までの短い任期を務めた[ 15] 。1889年 10月1日 、トーマスは民主党のマーティン・マギニス準州議員を破って、州初の連邦下院議員に選出され、1889年 11月8日 から1891年 3月3日 まで議員を務めた。トーマスは新人議員でありながら、下院鉱山・鉱業委員会の委員長を務めた。ある歴史家は、この異例の抜擢はメイン州 のトーマス・B・リード 下院議長との個人的友誼によるものだと指摘している。1890年選挙では、トーマスはビュートの弁護士で民主党のウィリアム・W・ディクソン に283票(総投票数の1%以下)の差で敗れ、落選した。ベンジャミン・ハリソン 大統領は、トーマスを1891年から1892年まで総合土地局 (英語版 ) の長官に任命したが、トーマスは共和党全国委員会の議長に選出された[ 18] 。共和党の委員長になったのは、カトリック教徒としては初めてであった[ 19] 。
トーマスは共和党員としてアメリカ上院議員に選出され、1895年 3月4日 から1901年 3月3日 まで務めた。上院議員としては、対カナダ関係委員会(第54議会 )、国勢調査委員会 (第55議会 、第56議会 )の委員長を務めた。ウィリアム・マッキンリー 大統領は、カーターをルイジアナ購入博覧会 の実行委員長に任命した。共和党員として上院議員に再選され、1905年 3月4日から1911年3月3日まで務めたが、その後の再選は目指さなかった。
1911年 9月17日 、ワシントンD.C.の自宅で肺梗塞のため亡くなった。葬儀はセント・ポール・ローマ・カトリック教会で行われ、同市のマウント・オリヴェット墓地に埋葬された[ 20] 。
エポニム
脚注
^ a b McHattie 1930, p. 54.
^ McHattie 1930, p. 55.
^ Biographical Directory.
^ McHattie 1930, p. 56-57.
^ McHattie 1930, p. 57-58.
^ McHattie 1930, p. 59.
^ 1881年のことだとされるが、はっきりとした記録は残っていない。
^ McHattie 1930, p. 60.
^ Progressive Men , p. 1120.
^ McHattie 1930, p. 60.
^ McHattie 1930, p. 62-64.
^ McHattie 1930, p. 61.
^ McHattie 1930, p. 61.
^ 19世紀後半のモンタナ州の銅工業界で活動した実業家、ウィリアム・アンドリュース・クラーク (英語版 ) 、マーカス・ダリー (英語版 ) 、フリッツ・アウグストゥス・ハインツェ (英語版 ) を指す言葉。詳細はコッパー・キングス (英語版 ) 。
^ a b Malone, Roeder, and Lang 1991, p. 212.
^ Toole 1951, p. 21-33.
^ 法案の審議には参加できるが、投票権を持たない代表のこと。
^ Biographical Directory
^ Prendergast 1999, p. 72.
^ “Carter burial here” . The Evening Star : p. 2. (September 18, 1911). http://chroniclingamerica.loc.gov/lccn/sn83045462/1911-09-18/ed-1/seq-6/
^ Roeder 1989, p. 23.
^ Cheney 1984, p. 43-44.
参考文献
“Carter burial here” . The Evening Star (Washington, D.C.): p. 2. (18 September 1911). http://chroniclingamerica.loc.gov/lccn/sn83045462/1911-09-18/ed-1/seq-2/
Cheney, Roberta Carkeek (1984). Names on the face of Montana : the story of Montana's place names (2nd. ed., rev. ed.). Missoula, MT: Mountain Press Pub. Co.. ISBN 0878421505
Knox, Thomas Wallace (1892). The Republican Party and Its Leaders: A History of the Party from Its Beginning to the Present Time . P. F. Collier. p. 372 . https://archive.org/details/republicanparty00knoxgoog
Malone, Michael P.; Roeder, Richard B.; Lang, William L. (1991). Montana : a history of two centuries (Rev. ed.). Seattle: University of Washington Press. ISBN 0295971290 . https://books.google.com/books?id=p-P59FkOPg0C
McHattie, Laurence P. (1930年7月). “Senator Thomas Henry Carter”. Mid-America 13 (1): 53–71.
Prendergast, William B. (1999). The Catholic voter in American politics: the passing of the democratic monolith . Washington, D.C.: Georgetown University Press. ISBN 0878407243 . https://books.google.com/books?id=B9nFwo5B1BQC&pg=PA72
Progressive men of the State of Montana . Chicago, IL: A. W. Bowen & Co.. https://archive.org/details/progressivemenof02bowe
Roeder, Richard B. (1989). “Thomas H. Carter: spokesman for Western development”. Montana The Magazine of Western History 39 (2): 23–29. JSTOR 4519213 .
United States Congress. "トーマス・H・カーター (id: C000200)" . Biographical Directory of the United States Congress (英語).
Toole, Kenneth Ross (1951年4月). “The Genesis of the Clark-Daly Feud”. The Montana Magazine of History 1 (2): 21–33. JSTOR 4515728 .
Waldron, Ellis L. (1958). Montana politics since 1864 : an atlas of elections . Missoula, MT: Montana State University Press. hdl :2027/uc1.b3640139
関連項目