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ドイツ統一時のプロイセン王国の領土(1871年 - 1918年)。現在のドイツ の北部からポーランド の西部・北部にまたがっている。
ドイツ統一 (ドイツとういつ)は、ドイツ人 がホーエンツォレルン朝 プロイセン王国 の国王ヴィルヘルム1世 をドイツ人の統一国家ドイツ国 (独 : Deutsches Reich ) の皇帝 として戴くことを決め、1871年 に北ドイツ連邦 へ南ドイツのほとんどの州が加盟する形で宣言された小ドイツ(ハプスブルク家の影響を除いたドイツ民族の統一)の概念に基づいて連邦制の性質を持ついわゆるドイツ帝国 (帝政ドイツ )を成立させたことを指す。
日本 においては1990年 の西ドイツ と東ドイツ の統一を指して「ドイツ統一」と使用することが多いが、ドイツなどでは「ドイツ統一」(独 : Deutsche Einigung , 英 : Unification of Germany )とはあくまで1871年の統一を指し、歴史用語・政治用語としても1990年のものは「ドイツ再統一 」(独 : Deutsche Wiedervereinigung , 英 : German reunification )と呼ばれ、明確に区別されている。
神聖ローマ帝国の崩壊
第三次対仏大同盟戦争 でオーストリアは敗北し、皇帝フランツ二世 はすでに形骸化していた神聖ローマ帝国 の崩壊を宣言し、中小帝国諸侯はナポレオンを「守護者」としてライン同盟 を構成したが、ナポレオンの敗北によるウィーン体制 の構築により1815年 にオーストリア、プロイセンを含むドイツ諸邦39カ国によって構成されるドイツ連邦 が成立した。また、ナポレオンの占領下でもドイツ民族としての文化や習慣があったため、ドイツ民族主義が台頭した。
前史
ドイツ連邦 参加国によるフランクフルト国民議会 ではドイツ統一について話し合われたが、大ドイツ主義 と小ドイツ主義 とがぶつかり、互いに相容れなかった。小ドイツ主義者は、プロイセン 王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 にドイツ皇帝戴冠の推戴をしたが、プロイセン内のナショナリズムの方が尊重され、ドイツ皇帝戴冠は拒否された。オーストリア も皇帝 フェルディナント1世 が退位、代わってフランツ・ヨーゼフ1世 が即位し、脱落した。フランクフルト国民議会はその存在価値を失い、話し合いによる統一は失敗した。
鉄血政策
北部ドイツにおいて最有力国家であったプロイセン王国 の首相オットー・フォン・ビスマルク は、「大ドイツ」最大の国家でありながら非ドイツ系住民を多数包含するオーストリア帝国 を排除して、プロイセン中心(小ドイツ主義 )の君主制によるドイツ統一を目指した。彼はいわゆる「鉄血演説 」を行って、ドイツ統一のために軍備拡張政策を追求することを宣言した。これを「鉄血政策」と呼ぶ。
普仏戦争とドイツ皇帝
ドイツ皇帝の戴冠式を描いた油絵。中央の白い軍服を着た男性がビスマルク 、その隣で帽子を掲げている人物がモルトケ である。壇上にはドイツ諸侯が並び、その前にはヴィルヘルム1世 がいる。1881年、アントン・アレクサンダー・フォン・ヴェルナー作。[1]
プロイセン王ヴィルヘルム1世は、プロイセン内のナショナリズム(国民意識)を尊重してドイツ統一を強く拒否した。しかし、宰相ビスマルクなどの後押しもあり、普仏戦争 の最中 ( さなか ) に1871年 1月18日 、ヴィルヘルム1世はヴェルサイユ宮殿 で戴冠式を行い、初代ドイツ皇帝 となった。
その後、プロイセンが興った経緯から、ヴィルヘルム2世 の亡命までドイツ全体がオランダ と関係を持つようになった [要説明 ] 。
ドイツ統一戦争
帝政ドイツ は戦争によって生まれた国家であり、その土台となった3つの戦争を総称して「ドイツ統一戦争」と呼ぶ[2] 。
脚注
関連項目
外部リンク