ムハンマドから当時バーレーンの知事を務めていたムンジール・イブン・サワ・アル・タミミに宛てた手紙
本項目ではバーレーン のイスラム教 について記述する。
概要
バーレーンでは国教とされており、ほぼ全ての国民 がムスリム である。しかしながら、インド やフィリピン 、スリランカ のような、ムスリムが多数を占めない国出身の移民 や外国人労働者 が流入しているため、国内のムスリムの割合は20世紀 末以降減少。
2010年 の国勢調査 によると、総人口 の70.2%がムスリムという[ 1] 。正確な数は把握されていないものの、シーア派がムスリム人口の3分の2程度とされる[ 2] 。
歴史
カタール やバーレーンの住民はイスラム教の伝来以前、アワル のような神 を崇拝する異教徒であった。しかし、7世紀 に入るとイスラム教がアラブ地域全体を席巻。預言者 ムハンマド は初の使節 であるアル=アラー・アル=ハドラミー を、バーレーン君主 のアル=ムンジル・イブン・サーワー に遣わすこととなる。
かくして628年 には、クウェート からアル・ハサー やカティーフ 、バーレーン諸島 を含むカタールの南岸部にまで勢力を伸長。ムンジルはイスラム教への改宗を表明すると共に、カタールに居住する一部ペルシア人 を含む、バーレーンやカタールの住民全員もムスリムとなった。バーレーンにおけるイスラム時代の幕開けである。
シーア派 、イスマーイール派 の流れを汲むカルマト派 が899年 バーレーンを掌握し、要塞 や軍事作戦の基地 とした。その後バグダード に侵攻し、930年 にはメッカ やマディーナ を攻略。ザムザムの泉 を巡礼 者の死体で汚し、黒石 をバーレーンに持ち帰った。カルマト派は976年 、アッバース朝 に敗北し、爾来勢力が衰微してゆく。
マナーマ のグダイビヤモスク
カルマト派国家の敗北に伴い、イスマーイール派も漸次衰退を余儀無くされるが、以後400年にわたるスンナ派 君主の下で、同派の一派である十二イマーム派 が台頭。歴史家 のフアン・コール によると、スンナ派はカルマト派を抑える上で十二イマーム派を好み、バーレーンでの発展を奨励したという[ 3] 。
13世紀 には、正統十二イマーム派に哲学 の諸主題や神秘主義 を習合した「バーレーン学派」が勃興。シェイフ・カマル・アッディーン・サーダーやシェイフ・ジャマールッディーン・アリー・イブン・スレイマーン・アル=バフラーニー、マイサム・アル=バフラーニーらの神学者を輩出するに至る[ 4] 。
現況
正式な数は不明だが、生粋のバーレーン人のうち7割程度が十二イマーム派を奉じ、残りの3割がスンナ派の様々な分派 であるという。ハイファ家やこれを支持する部族は、イスラム法学ではアブドゥッラー・ビン・アリー・アル=ウユーニー (英語版 ) が開いたウユーニー朝時代に展開した、マーリク学派 を信奉。ハナフィー学派を奉じる南アジアのムスリム系住民も多数おり、南アジアから伝来したジャファリー学派を信仰する者もいる。
関連項目
外部リンク
脚注