ベインティシンコ・デ・マヨ (ARA Veinticinco de Mayo ) は、アルゼンチン海軍 の航空母艦 。1969年 就役、1997年 退役。スペイン語の発音のバリエーションに基づいてベインティシンコ・デ・マジョ やベインティシンコ・デ・マージョ とも書かれる(ジェイスモ 参照)。
"Veinticinco de Mayo"とはスペイン語 で「5月25日 」の意味で、アルゼンチンの五月革命 記念日(1810年 5月25日 に成立した最初の自治政府を記念する日)である。そのため、書籍によっては5月25日号 や、25 de Mayo などと表記される場合もある。また、アルゼンチン海軍は1930年代から1950年代にかけてその名を冠した巡洋艦 を運用していた。
艦歴
イギリス海軍時代
元はこの艦は第二次世界大戦 中の1942年 12月3日 にイギリス のバーケンヘッドで建艦されたイギリス海軍 艦である。コロッサス級航空母艦 としてヴェネラブル の名を与えられて1945年 1月17日 に就役し、イギリス太平洋艦隊 にて任についた。
参戦して数ヶ月で終戦となり、戦争終結後しばらくは戦争捕虜 の本国送還に従事していた。戦時には空母の建造と配備が急務であったが、いざ戦争が終わってしまうと多数の空母を保持している必要性も小さくなった。そのため、ヴェネラブルはイギリス海軍に就役後わずか3年でオランダ に売却されることとなった。
オランダ海軍時代
貸与されていた護衛空母ナイラナ を持ち主のイギリスに返却した穴埋めとして、オランダ海軍 は1948年 5月28日 、カレル・ドールマン と再命名した元ヴェネラブルを就役させた。この艦はオランダ海軍がこれまで運用した中で最大の艦だった。
第二次大戦当時のレシプロ機 用の空母から戦後のジェット機 用空母への近代化改修(アングルド・デッキ の増設、蒸気カタパルト の設置など)が1955年 7月 から1958年 6月 にかけて行われている。
20年ほど任務に就いた後の1968年 4月28日 、この艦の機関室で火災が起き、機関が使い物にならなくなった。しかし元々数年後には退役する予定でもあったのであえて修理を行うことはせず、予定を繰り上げて同年退役することになった。
アルゼンチン海軍へ
ベインティシンコ・デ・マヨの紋章。モットー はアルゼンチン国歌 の一節。
機関室で起きた火災の後、オランダはこの空母をアルゼンチン に売却した。損傷した機関部は、コロッサス級とほぼ同型のマジェスティック級航空母艦 で、建造途中で大戦が終結したために建艦中止になっていた空母レヴァイアサン から流用して置き換えられた。オランダにてその復旧工事を行っている最中の1969年 3月12日 に、この元ヴェネラブル・元カレル・ドールマンはベインティシンコ・デ・マヨと名付けられてアルゼンチン海軍に就役し、その年の8月 には工事も完了した。このレヴァイアサンから流用された機関は、ベインティシンコ・デ・マヨに換装された当初より不調だったと言われる。
アルゼンチン海軍は、既にインデペンデンシア (これも元イギリスのコロッサス級空母ウォリアー である)で空母の運用は経験済みであった。インデペンデンシアが1970年に退役すると、24機の艦載機を搭載するベインティシンコ・デ・マヨがアルゼンチン艦隊唯一の空母となった。
艦載機 部隊はF9Fパンサー とF9Fクーガー から始まり、1972年にA-4Qスカイホーク とそれを補佐するS-2トラッカー 対潜哨戒機とSH-3シーキング に置き換えられた。さらに1980年 から1981年 にかけて、飛行甲板面積の増加、アングルド・デッキの延長などの改修が行われ、シュペルエタンダール が搭載可能になった。
フォークランド紛争
1982年 4月 に始まったフォークランド紛争 では、この艦は製造元であり、かつての所属先であったイギリスと戦うこととなった。ベインティシンコ・デ・マヨは機動部隊 に組み込まれてフォークランド諸島 の北側に展開され、南側には巡洋艦ヘネラル・ベルグラノ が展開された。イギリスはスウィフトシュア級原子力潜水艦スパルタン にベインティシンコ・デ・マヨを追跡し、必要な場合には撃沈する任務を与えていた。
ついに戦闘状態に突入した1982年 5月1日 、このアルゼンチン空母は、HMSハーミーズ とHMSインヴィンシブル の2隻の空母を中核とするイギリス機動部隊 に対してA-4Qスカイホークの波状攻撃 を仕掛ける予定であった。
しかし、第二次大戦以来初めての(そして今日に至るまで大戦後唯一の)航空母艦同士の戦いになるはずだったこの戦いにおいて、燃料・兵装を満載にしたアルゼンチンの艦載機 は風量の不足でとうとうベインティシンコ・デ・マヨから飛び立つことが出来ず、対決は実現しなかった。ベインティシンコ・デ・マヨは、火災事故の後レヴァイアサンから流用した機関の調子が思わしくなく、航空機の運用に必要なだけの本来の速度を出すのが困難な状態であった。航空母艦は艦載機の発艦の際、対気速度を上げ揚力を稼ぐために風上に向かって全速力で突進する必要がある。空母自体の速度が遅くては、満載状態の艦載機は離艦すら出来ないのである。
イギリス海軍側はアルゼンチン軍 の航空機の攻撃により駆逐艦シェフィールド やアマゾン級フリゲートアーデント など多数の艦船を損失していて、更なる損失を恐れて空母は戦闘域外に留まっていた。
一方のアルゼンチン海軍側も、巡洋艦ヘネラル・ベルグラノがチャーチル級原子力潜水艦コンカラー によって撃沈されて以降、損失を恐れたベインティシンコ・デ・マヨは港に戻り外洋に出ようとしなかった。このため追跡の任を与えられていた潜水艦スパルタンは追跡する目標を失うことになる。
艦載機のA-4Qはその後の戦闘ではフエゴ島 のリオ・グランデ 海軍航空基地から飛び立ち、アーデントを沈めるなど幾つかの戦果を残したが、その一方で3機のA-4がシーハリアー に撃墜されている。
なお、この戦争においてシュペルエタンダールから発射されたエグゾセ 対艦ミサイルがイギリス艦艇に多大な被害を与えその威力を見せつけたことは有名だが、当時シュペルエタンダールはベインティシンコ・デ・マヨへの着艦がまだ承認されていなかったため、ベインティシンコ・デ・マヨからの運用ができず、陸上の海軍航空基地から発進している。
紛争後
戦後間もなくしてシュペルエタンダールが艦載機部隊に配備されたが、すぐに持病の機関トラブルによって港に貼り付けになった。1980年代後半には機関トラブルの解消・速力の回復・省力化を目的に、主機をディーゼルエンジン に換装する工事が始まった。
しかし艦歴50年に近い老朽艦でもあり、完全な作戦遂行可能状態にするにはさらに経費がかさむことは明白であった。アルゼンチン海軍はこの艦のさらなる近代化改修のための多大な資金の獲得を諦め、1997年にベインティシンコ・デ・マヨは退役した。2000年 、数奇な運命を経たこの艦はインド のアランに回航され、そこで解体 された。
アルゼンチン海軍航空隊は、この艦がドック入りしている際には隣国ブラジル の航空母艦ミナス・ジェライス の飛行甲板を借りて空母着艦・発艦等の訓練を行い、ベインティシンコ・デ・マヨ退役後も同じくブラジルのサン・パウロ の飛行甲板を借りて技能維持に努めていた。しかし実際問題としてアルゼンチン海軍への新規空母の導入は、冷戦 が終結ししかも遠国イギリスを含め、近隣諸国との国家対立が無い情勢下では、いまだ具体案がない状態である。
関連項目
外部リンク