ベルベル人 (ベルベルじん)は、北アフリカ (マグレブ )の広い地域に古くから住み、アフロ・アジア語族 のベルベル諸語 を母語 とする人々の総称。北アフリカ諸国でアラブ人 が多数を占めるようになった現在も一定の人口をもち、文化的な独自性を維持する先住民族 である。形質的には、元来はコーカソイド だったと考えられるが、トゥアレグ族 など混血により一部ネグロイド 化した部族も見られる。宗教 はイスラム教 を信じる。
ベルベル人という名称はローマ人 による蔑称である[1] 。ベルベルの呼称は、ギリシャ語 で「わけのわからない言葉を話す者」を意味するバルバロイ に由来し[2] 、ヨーロッパ の諸言語で Berber と表記されることによる。
自称はアマーズィーグ (転写: ⴰⵎⴰⵣⵉⵖ)である。アマジグ人 、アマジク人 という呼称もこれ由来である。イマジゲンと呼ばれることも多い。
居住地域
ベルベル人はカビール 、シャウィーア (英語版 ) 、ムザブ人 (英語版 ) 、トゥアレグ の4部族をはじめ、リーフ人 、シェヌアス (英語版 ) 、シルハ (英語版 ) 、ザイエン (フランス語版 、英語版 ) 、Igawawen 、グアンチェ 、イバード派 、シウィ人 (英語版 ) などの諸部族に分かれる。東はエジプト 西部の砂漠地帯から西はモロッコ 全域、南はニジェール川 方面までサハラ砂漠 以北の広い地域にわたって分布しており、その総人口は1000万人から1500万人ほどである。モロッコでは国の人口の半数、アルジェリア で同5分の1、その他、リビア 、チュニジア 、モーリタニア 、ニジェール 、マリ などでそれぞれ人口の数%を占める。北アフリカのアラブ部族の中にはベルベル部族がアラブ化したと考えられているものも多い。ヨーロッパのベルベル人移民人口は300万人と言われ、主にフランス 、オランダ 、ベルギー 、ドイツ などに居住している他、北米ではカナダ のケベック州 にも居住している。
歴史
先史時代
ベルベル人の先祖はタドラルト・アカクス (1万2000年前)やタッシリ・ナジェール に代表されるカプサ文化 (1万年前 - 4000年前)と呼ばれる石器文化を築いた人々と考えられており、チュニジア周辺から北アフリカ全域に広がったとみられている。
ベルベル人の歴史は侵略者との戦いと敗北の連続に彩られている。紀元前10世紀頃、フェニキア から北アフリカの沿岸に至って勢力範囲が広がったフェニキア人 [注釈 1] がカルタゴ などの交易都市を建設すると、ヌミディア のヌミディア人 やマウレタニア のマウリ人 (英語版 ) などのベルベル系先住民族は彼らとの隊商交易に従事し、傭兵としても用いられた。また、古代エジプト王朝とは緊密な関係にあり、傭兵となって王国軍の主力になり活躍することもあれば、王権の弱体化によって王位を簒奪 することもあったし、ナイルデルタ地域へ略奪に来ることもあった。古代ギリシア ではキレナイカ以東のベルベル人のことをリビュア人 と称していた。西のマウリやヌミディアのマッサエシュリ部族とマッシュリー部族は部族連合を組んで集権的な国家を整えていくが、東のガラマンテス族達は小部族が合従連衡する状態から抜け出せないまま現代に至り、リビア内戦 の遠因となった。
ローマ帝国
古代カルタゴ (英語版 ) (前650年 - 前146年 )の末期、前219年 の第二次ポエニ戦争 でカルタゴが衰えた後、その西のヌミディア (前202年 - 前46年 )でも紀元前112年 から共和政ローマ の侵攻を受けユグルタ戦争 となった。長い抵抗の末にローマ帝国 に屈服し、その属州 となった。ラテン語 が公用語 として高い権威を持つようになり、ベルベル人の知識人や指導者もラテン語を解するようになった。ローマ帝国がキリスト教化された後には、ベルベル人のキリスト教化が進んだ。
ヴァンダル王国
ローマ帝国の衰退の後、フン族 の侵入に押される形でゲルマニア に出自するヴァンダル人 が北ヨーロッパからガリア 、ヒスパニア を越えて侵入し、ベルベル人を征服してヴァンダル王国 を樹立した。この王国の公用語はゲルマン語とラテン語であり、ベルベル語 はやはり下位言語であった。
ローマ帝国時代からヴァンダル王国の時代にかけて、一部のベルベル人は言語的にロマンス 化し、民衆ラテン語の方言(マグレブ・ロマンス語)を話すようになった。
東ローマ帝国
ヴァンダル王国は6世紀 に入ると、ベルベル人の反乱や東ゴート王国 との戦争により衰退し、最終的に東ローマ帝国 によって征服された。当時の東ローマ帝国はすでにギリシャ化が進んでいたため、ラテン語に代わりギリシャ語 が公用語として通用した。ベルベル語はやはり下位言語とされ、書かれることも少なかった。
イスラーム帝国
7世紀 に入ると、東ローマ帝国 の国力の衰退を好機として、アラビア半島 からアラブ人 のイスラム教徒 (ウマイヤ朝 )が北アフリカのエジプト に侵攻・征服し、その勢いを駆ってベルベル人の住む領域まで攻め込んだ(マグリブ征服 (英語版 ) )。ベルベル人はこの新たな侵略者と数十年間戦ったが、7世紀末に行われた抵抗(カルタゴの戦い (698年) (英語版 ) )を最後に大規模な戦いは終結し、8世紀 初頭にウマイヤ朝 のワリード1世 の治世に、総督ムーサー・ビン=ヌサイル (英語版 ) や将軍ウクバ・イブン・ナフィ (英語版 ) によってベルベル人攻略の拠点カイラワーン が設置され、アラブの支配下に服した。イスラーム帝国 の支配の下、北アフリカにはアラブ人の遊牧民 が多く流入し、ベルベル人との混交、ベルベルのイスラム化が急速に進んだ。また言語的にも公用語となったアラビア語 への移行が進んだ。ベルベル語は書かれることも少なく、威信のない民衆言語にとどまった。
イスラーム帝国の支配下でも、ベルベル人は優秀な戦士として重用された。711年 にアンダルス (イベリア半島 )に派遣されてグアダレーテ河畔の戦い で西ゴート王国 を滅ぼしたイスラム軍の多くはイスラムに改宗したベルベル人からなっており、その司令官であるターリク・イブン=ズィヤード は解放奴隷出身でムーサーに仕えるマワーリー (被保護者)であった。ベルベル人は征服されたアンダルスにおいて、軍人や下級官吏としてアラブ人とロマンス語話者のイベリア人との間に立った。彼らは数的にはアラブ人より多く、イベリア人より少なかった。
マグリブ とアンダルス でのベルベル革命 (英語版 ) (739年 - 743年 )、750年 のアッバース革命 の後、756年 のムサラの戦い (スペイン語版 、カタルーニャ語版 ) で後ウマイヤ朝 (756年 - 1031年 )が成立。
イブラーヒーム・イブン・アル・アグラブ (英語版 ) がイフリーキヤ で自立しアグラブ朝 (800年 - 909年 )を興した。ウバイドゥッラー がアグラブ朝を倒し、ファーティマ朝 (909年 - 1171年 )を興すと、ベルベル人はその支配下でズィール朝 (983年 - 1148年 )を興した。ズィール朝にアルジェ が建設された。
タイファ期
11世紀 、12世紀 のタイファ 期には、イスラム化して以降熱心なムスリム (イスラム教徒)になっていたベルベル人は、モロッコでイスラムの改革思想を奉じる宗教的情熱に支えられたベルベル人の運動から発展した国家 、ムラービト朝 (1040年 - 1147年 )、ムワッヒド朝 (1130年 - 1269年 )を相次いで興した。ベルベル人が他民族を支配した数少ない王朝であったムラービト朝 やムワッヒド朝 でも、王朝の公用語はムスリムである以上アラビア語であり、ベルベル語ではなかった。
ベルベル人もイベリア半島に侵入し、アンダルスに入った。ベルベル人が樹立した征服王朝のナスル朝 グラナダ王国 (1232年 - 1492年 )の時代、支配下の人民の多くがロマンス語やベルベル語の影響を受けたアル・アンダルス=アラビア語 を用いていたとされる。ベルベル人は当初、支配者はより一層アラブ化してアラビア語を話すようになり、下位の者は民衆に同化してロマンス語を話すようになった。しかし年月がたち、改宗によってムスリム支配下の南部イベリアにおけるムスリムの全人口に占める割合が増加するにつれ、アラビア語の圧力はさらに高まり、ベルベル語話者やロマンス語話者の多くが民衆アラビア語に同化していった。時とともにベルベル人・アラブ人・イベリア人の三者は遺伝的・文化的に入り混じっていき、現在のスペイン語 にはアラビア語とともにベルベル語の影響が見られる。またベルベル人の遺伝子もスペイン人やポルトガル人の遺伝子プール に影響を与えた。
ムワッヒド朝はアンダルスでのキリスト教徒との戦いに敗れて衰退、滅亡し、代わってモロッコ地域にはマリーン朝 、チュニジア地域にはハフス朝 というベルベル人王朝が興隆した。マリーン朝はキリスト教徒の侵入に抵抗するグラナダ王国などのイスラーム勢力を支援し、イベリアのキリスト教勢力と激しい戦いを行ったが、アルジェリア地域のベルベル人王朝であるザイヤーン朝 との戦いにより国力を一時失い、それに乗じたカスティーリャ王国 により1340年 にはチュニス が占領された。しかしスルタン であるアブー・アルハサン・アリー により王朝は一時的に持ち直し、1347年 にはチュニスを奪回した。しかしマリーン朝の復興は長く続かず、アブー・アルハサンの次のスルタンであるアブー・イナーン・ファーリス の死後は再び有力者同士の内紛で衰亡し、ポルトガル王国 により地中海や大西洋沿岸の諸都市を占領された。マリーン朝は最終的に15世紀 の半ばに崩壊し、以後モロッコ地域は神秘主義教団の長や地方の部族が割拠する状態になった。
モリスコ追放
1492年 にナスル朝 が滅亡すると、イベリアに居住していたベルベル系のムスリムは、アラブ系やイベリア系のムスリムとともにモリスコ とされた。モリスコは当初一定程度の人権を保障されていたが、やがてキリスト教への強制改宗によりイベリア人のキリスト教社会に同化させられ、それを拒む者はマグレブ へと追放された(モリスコ追放 )。現在でもマグレブではこの時代にスペインから追放された人々の子孫が存在している。
オスマン帝国
16世紀には、東からオスマン帝国 が進出した。1533年 にはアルジェ の海賊 、バルバロッサ がオスマン帝国の宗主権を受け入れた。1550年にオスマン帝国はザイヤーン朝 を滅ぼした。オスマン帝国の治下ではトルコ人 による支配体制が築かれ、前近代を通じて、バルバリア海岸 におけるベルベル人のアラブ化は徐々に進んでいった。今日アラブ人として知られる部族の多くは、実際はこの時代にアラビア語を受け入れたベルベル人部族の子孫である。アルジェのデイ は、沿岸のキリスト教国の船をバルバリア海岸 のバルバリア海賊 を率いて襲撃し、キリスト教徒を奴隷にしていた。
19世紀になると、キリスト教徒の奴隷を解放する為に、第一次バーバリ戦争 (1801年 - 1805年)と第二次バーバリ戦争 (1815年 )、1817年 8月27日 、アルジェ砲撃 等が行なわれた。
フランス植民地
19世紀 以降、マグレブ地域はフランスによる侵略と植民地支配を受けた。フランス語がアラビア語に代わる公用語となり、アラブ人の一部にはアラビア語を捨ててフランス語に乗り換えるものもいたが、ベルベル人の一部も同様であった。彼らはフランスの植民地支配に協力的な知識人層を形成し、フランス支配の中間層として働いた。しかし一方で植民地支配に対する抵抗も継続し、このときベルベル人はアラブ人とともに植民地支配者のフランス人に対抗して、ムスリムとしての一体性を高めた。しかし、独立後のマグリブ 諸国では、近代国民国家を建設しようとする動きの中で、ベルベル文化への圧迫とアラブ化政策がかつてない規模で進められ、人口比の関係からもアラビア語 を話す者が増えたため、20世紀 後半にはベルベル語と固有文化を守っていこうとする運動が起こった。
遺伝子
ハプログループEの分布[3] [4]
Y染色体 はハプログループE1b1b系統 が75[5] -93%[6] みられる。
著名なベルベル人
脚注
注釈
^ フェニキア人をラテン語で「ポエニ人 (英語版 ) 」という。カルタゴに住むフェニキア人とその末裔を、後のローマ人はポエニ人と呼んだ。
出典
^ 高崎通浩『改訂版 世界の民族地図』(初版第1刷)作品社、1997年12月20日、243頁。ISBN 4878932910 。 NCID BA33978970 。
^ “サハラ砂漠のラクダ使いに1日密着してわかったこと「チャンスがあれば観光客をナンパ」「世界中の言葉を使いこなす」など ”. ロケットニュース24 (2017年9月19日). 2019年11月21日 閲覧。
^ Cole, Christopher B.; Zhu, Sha Joe; Mathieson, Iain; Prüfer, Kay; Lunter, Gerton (2020-06-01). “Ancient Admixture into Africa from the ancestors of non-Africans” (英語). bioRxiv : 2020.06.01.127555. doi :10.1101/2020.06.01.127555 . https://www.biorxiv.org/content/10.1101/2020.06.01.127555v1 .
^ Bergström, Anders; Stringer, Chris; Hajdinjak, Mateja; Scerri, Eleanor M. L.; Skoglund, Pontus (2021-02). “Origins of modern human ancestry” (英語). Nature 590 (7845): 229–237. doi :10.1038/s41586-021-03244-5 . ISSN 1476-4687 . https://www.nature.com/articles/s41586-021-03244-5 .
^ Bosch, E; Calafell, F; Comas, D; Oefner, P; Underhill, P; Bertranpetit, J (2001). "High-Resolution Analysis of Human Y-Chromosome Variation Shows a Sharp Discontinuity and Limited Gene Flow between Northwestern Africa and the Iberian Peninsula". The American Journal of Human Genetics 68 (4): 1019–29. doi:10.1086/319521. PMC 1275654. PMID 11254456 .
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関連項目
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外部リンク