マヘリア・ジャクソン (Mahalia Jackson , 1911年 10月26日 - 1972年 1月27日 )は、アフリカ系アメリカ人 の女性 ゴスペル 歌手 。世界で最も影響力のあるゴスペル歌手の一人として「ゴスペルの女王」[ 1] [ 2] と呼ばれ、またキング牧師 らと共に、その歌と活動により当時の公民権活動に貢献した。ハリー・ベラフォンテ はジャクソンを「米国で最も強力な黒人女性」として称賛した[ 3] 。ジャクソンは主にコロンビア・レコード から約30枚のアルバムをリリースし、数々のミリオンセラーを記録した。
概要
ルイジアナ州 ニューオーリンズ に生まれ、市内アップタウン の黒人が多く住むBlack Pearlと呼ばれる地区で育ちながら、バプティスト 教会で唄い始める。1927年 にシカゴ へ移り、ゴスペルグループであるジョンソン・ブラザーズのメンバーとしてプロの音楽活動を開始する。
1937年 にソロとして初のレコーディング(「God's Gonna Separate the Wheat from the Tares 」)を行うが売上は芳しくなかった。しかしこのレコーディングを切掛けに、音楽関係者たちから実力を認められるようになり、有名なコンサートへ出演する機運に恵まれる。
その後はコンサート活動に専念、暫くレコーディング活動から離れるが、1946年 にアポロ・レコードと契約[ 4] 。アポロで録音した何曲かのゴスペル作品によって、次第に広く一般にも知られるようになっていった。もっともレコードの売上自体はまだまだ不調続きであったが、実力に伴う知名度は上がっていった。
1948年 の「Move on up a Little Higher 」によって、ようやく商業的にも成功を収める。レコードの急激な売上上昇に追いつかず、レコードショップは在庫を常に切らした状態であったという。マヘリアはアメリカ国内のみならず、ヨーロッパ でも有名になり、「I Can Put My Trust in Jesus 」によってフランス ・アカデミーから賞を受けた。その後CBSラジオで自身の番組を持ち、1954年 にはコロムビア・レコードに移籍した。
マヘリアの歌と公民権運動の活動は、保守層の一部から批判を受けることもあったが、彼女は、独立した黒人女性アーティストとして自らの意思をもって活動した。ルイ・アームストロング らにジャズ業界に誘われることもあったが、彼女は一貫してゴスペルと黒人霊歌を歌うことを選んだ[ 5] 。
マヘリアは常に公民権運動 に積極的に関わり、まさに公民権運動の時代の歌声となった。セルマ行進、ワシントン行進 、そしてキング牧師の葬儀でも歌った。キング牧師の朋友であり、公民権運動家のジェシー・ジャクソン は、キング牧師が彼女に声をかければ、彼女は決して断ることなく、人種差別の最も厳しい深南部の地域にすら共にまわったと回想している[ 5] 。
オランダのアムステルダムでのコンサート会場で歌うマヘリア・ジャクソン (1961年4月)
1956年、全米バプテスト集会で出会ったラルフ・アナバシーやキング牧師らに、アラバマ州モントゴメリーのバスボイコットを応援し寄付を集めるためのコンサートの話を持ちかけられたマヘリヤは、その年の12月6日にコンサートを開き大成功をおさめた[ 6] 。
後期
60年代になってもマヘリアはなお旺盛に音楽活動を行い、ニューポート・ジャズ・フェスティバル やケネディ 大統領の就任式でも演奏した。
1971年 に来日、渋谷公会堂 で公演した。(観客のひとりにデビュー間もない頃の浅川マキ が居り、当時のことを克明に記憶していた。その出来事は浅川マキのエッセイやインタビューなどで度々話題となった。[ 7] [ 8] また、観客の中にはデビュー前の吉田美奈子 も居た。)マヘリアは、1971年 のドイツ 公演を最後に音楽活動から引退した。
1972年 1月27日 、糖尿病 に因る心臓麻痺 (心不全 )のため、イリノイ州 シカゴ で没。 60歳だった。墓所は、故郷ニューオーリンズに隣接したルイジアナ州 メテリー のプロヴィデンス共同墓地にある。死後、マヘリアはゴスペル・ミュージック協会から「ゴスペル・ミュージックの名誉」 との称号を与えられた。
関連項目
脚注・出典
外部リンク