メキシコ独立革命(メキシコどくりつかくめい)、またはメキシコ独立戦争(メキシコどくりつせんそう、スペイン語: Independencia de México、英語: Mexican War of Independence)は、スペイン領植民地であったメキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)の独立に向けた戦争(1810年 - 1821年)。1810年9月16日に始まった当初は植民支配者に対する農民反乱として始まったが、最終的には政教分離や自由主義を掲げ独立を望むリベラル派(liberales)と、カトリックおよび君主制の権威の尊重や身分制・集権制の保持を主張し独立を望まなかった保守派(conservadores)が手を組む意外な展開となり、メキシコ独立へと至った。
独立への最初の動き
歴史家の中には、メキシコの独立闘争は1650年12月、アイルランド人のカトリック教徒、ウィリアム・ランポート(William Lamport、別名ギジェン・デ・ランパルト Guillen de Lampart、ギジェン・ロンバルド Guillén Lombardo)が異端審問監獄から脱走し、独立宣言文をメキシコシティ中に貼って回ったときが始まりであるとする者もいる。これは新世界で最初の独立宣言であるのみならず、民主的な選挙で選ばれた君主を置くこと、人種の平等、土地改革をすることを公約した最初の文書でもある。ランポートの望みはメキシコがスペインの支配を破り、教会と国家が完全に分離することであったが、彼は数日後に逮捕され、異端として火刑に処された。
この頃、スペイン本国はスペイン独立戦争が勃発する事態となっていた。この混乱に乗じ、植民地の解放の機運が中南米各地で高まった。またグアナフアト州からケレタロ州にかけて広がるバヒオ(Bajío)の平原の農村に1808~09年にかけて干ばつがあって、1810~11年に飢饉が広がり、大農園の売り惜しみにより主食のトウモロコシの値段が高騰し農民は苦しんでいた。イダルゴ自身は社会的抗議を意識し、直接農民、貧民に呼びかけて蜂起の準備を進め、1810年10月1日を決起の予定日とし、武器弾薬の備蓄を始めていた。ところが蜂起直前の9月13日、仲間の中から裏切り者が出て、この計画が地元政府に漏れてしまった。コレヒドール(地方長官)のミゲル・ドミンゲスは反乱者たちのアジトの捜索や一味の逮捕を命令した。しかし彼の妻であり、実はイダルゴたちの反乱計画の仲間であったホセファ・オルティス・デ・ドミンゲス(Josefa Ortiz de Domínguez)は夫に閉じ込められた部屋から脱出し、イダルゴら仲間たちに警告を送った。
彼女のおかげで逮捕から逃れることができたイダルゴたちは決起の計画を早めることとした。1810年9月16日の早朝、イダルゴはドロレスの教会の鐘を鳴らし会衆を集め、スペイン植民地政府やペニンスラールに対する抵抗を呼びかけた。彼は「我らがグアダルペの聖母万歳!悪辣な政府と植民者たちに死を!」と言ってすべてのスペイン人の追放を訴え、演説を「Mexicanos, ¡viva México! (メキシコ人よ、メキシコ万歳!)」という叫びで締めくくった。この有名な演説は『ドロレスの叫び』(Grito de Dolores)と呼ばれる[2]。この時イダルゴ神父は集まった教区内の先住民に対して副王の打倒を呼びかけ、「独立」を口にはしていない[3]。
イダルゴ率いる独立軍はグアナフアトから一路メキシコシティを目指して進軍し、途中のサカテカス、サン・ルイス・ポトシ、モレリア(当時のバリャドリード)といった都市を陥落させペニンスラールを皆殺しにした。1810年10月30日、彼らはヌエバ・エスパーニャの首都メキシコシティの手前のモンテ・デ・ラス・クルセス(Monte de las Cruces)で政府軍の抵抗にあい、辛くも勝利するものの多大な犠牲を出して進軍の勢いが止まり、首都攻略に失敗した。いくつかの勝利を収めた後、独立軍は被害を立て直すために北のテキサスへ向かった。
翌年、再度首都を目指し南への進撃を開始するものの、クリオーリョも含めた白人全般に対し敵対的な独立軍は幅広い支持を得るのに失敗していた。3月、独立軍は政府軍の待ち伏せにあい大敗し、現在のコアウイラ州のモンクローバで捕虜となった。アメリカ合衆国に逃げようとしたイダルゴは逮捕され、異端審問所(Santo Oficio de la Inquisición)で司祭として審理され、異端と反逆の罪で有罪となり、死刑を宣告された。1811年7月31日、彼は銃殺刑に処され、体は切断されて首はグアナフアト市街に住民への反乱の戒めのため晒された。
ホセ・マリア・モレーロスの憲法と独立宣言
イダルゴは処刑されたものの、ヌエバ・エスパーニャ各地で反乱は相次いでいた。特に大きな反乱は、南部で先住民の血を引くメスティーソ[6]のカトリックの司祭であったホセ・マリア・テクロ・モレーロス・イ・パボン(José María Teclo Morelos y Pavón)がイダルゴの蜂起の直後に起こしたものだった。彼は1812年には南部の広い一帯を支配し、1812年にはオアハカ、1813年にはアカプルコと主要都市を次々に陥落させた。
1820年12月、弱体化した反乱軍に対する最後の作戦となるはずだった、ビセンテ・ゲレーロ軍に対する掃討が開始された。副王フアン・ルイス・デ・アポダカは王党派のクリオーリョであるアグスティン・デ・イトゥルビデ(Agustín de Iturbide)をオアハカへと派遣した。イトゥルビデはモレリア(バリャドリード)出身の土着白人で、独立革命の初期にミゲル・イダルゴやホセ・マリア・モレーロスらの強力な独立軍を手ひどく痛めつけて輝かしい戦果を収め、ヌエバ・エスパーニャ植民地政府やその支持者からは熱狂的な名声を集めていた。ヌエバ・エスパーニャのキリスト教会の権威からの覚えも良いイトゥルビデは、敬虔で宗教的で、所有権や社会的特権(フエロ)の守護に献身的に打ち込む、保守派クリオーリョの価値観の化身であった。もっとも、クリオーリョの彼は出世や富への道を閉ざされていたことに強い不満を持っており、独立派ゲリラへ共感を覚えていた。
イトゥルビデは彼の率いる軍隊がイグアラ綱領を受け入れたと確信した後、ゲレーロに対し自分の軍隊と合流し、政治的に保守的な新しい独立計画を実現するのを手助けしてほしいと説得した。こうして新しい軍隊、「三つの保証軍(Ejército de las Tres Garantías)」がイグアラ綱領実現のためイトゥルビデの指揮下動き出した。この計画案は広い基盤に基づいていたため、王党派も愛国派も満足するものとなった。スペインからの独立という目標と、カトリック教会の保護は、メキシコの全党派を一体化させたのである。