ラ・ロシェルの海戦 (ラ・ロシェルのかいせん、英語 : Battle of La Rochelle)は、 1372年 6月22日 と23日 にフランス 西部の海港ラ・ロシェル の沖で起こった、カスティーリャ 艦隊とイングランド 船団の戦いである。フランス 軍の包囲下にあったラ・ロシェルのイングランド軍を、カスティーリャ艦隊が破った。イングランド船団をすべて拿捕 したカスティーリャ側の完勝だったが、イングランド海軍は急速に再建して力を取り戻し、しばらくフランス沿岸を脅かすことになる。
背景
エドワード3世
1337年 に英仏間で勃発した百年戦争 は、当初はクレシー 、ポワティエ などでイングランド軍がフランス軍を圧倒したが、1364年 にフランス王シャルル5世 (賢明王)が即位するとフランス軍は徐々に態勢を立て直した。これに対しイングランド王エドワード3世 は1372年、イングランドが支配するフランス南西部のアキテーヌ公国 に着任したばかりのペンブルック伯 ジョン・ヘイスティングス (英語版 ) を司令官として、フランス本土への本格的な侵攻を計画した。
アキテーヌに対するフランスの圧力は強まっていた。[2] 1370年 以来、領土の大部分がフランス軍の手に落ちており、1372年にはフランス軍司令官ベルトラン・デュ・ゲクラン がラ・ロシェルを包囲した。1368年 に結ばれたフランスとカスティーリャの同盟に応え[3] 、カスティーリャ王エンリケ2世 はアンブロシオ・ボッカネグラ (英語版 ) 率いる艦隊を派遣した。カスティーリャ艦隊の規模の詳細は分かっていないが、14世紀 のカスティーリャの歴史家 ロペス・デ・アヤラ (英語版 ) (1332–1407)はガレー船 12隻としている。ネーデルラント の年代記 作家フロワサール はガレー船13隻としている。
戦闘
ラ・ロシェルの海戦。15世紀 の年代記のミニアチュール (細密画)より
6月21日、イングランド軍の船団がラ・ロシェルに到着しペンブルック伯の艦隊が港に近づくと、湾の入り口付近で戦いが始まった。カスティーリャ艦隊の攻撃に対して、数で劣るイングランド艦隊は激しく抵抗し、夕闇が迫って潮が満ちると両軍は別れた。フロワサールによると、イングランド艦隊は2~4隻を失ったものの打ち負かされてはおらず、いったん陸地から離れた。一方のカスティーリャ艦隊はラ・ロシェルの前面に停泊した。
同夜、ペンブルックは幕僚 らとカスティーリャ艦隊をどう突破するかを議論したが[1] 、結論が出ないままに潮が引いてしまい、イングランド艦隊の多くが座礁 した。カスティーリャ艦隊のガレー船は浅瀬でも自由に航行でき、これが決定的な差となった。翌朝、戦闘が再開すると、カスティーリャ艦隊は座礁したイングランドの艦船の甲板 や綱具に油をまいて火矢 を放ち、焼き払った。[1] 多くのイングランド兵が殺されたり生きたまま焼かれ、ペンブルック伯はじめ多数が捕虜となった。カスティーリャ側の史家によると、イングランドの捕虜は騎士400人と8,000人の兵士だったという。[4] イングランド側の史料では、戦死者800人、捕虜160~400人とされている。[1] イングランド艦隊は壊滅し12,000ポンド 相当の財宝がカスティーリャ王国の手に落ちた。
戦後
ラ・ロシェルは、百年戦争におけるイングランド軍の初めての海戦での敗北となった。[1] この敗戦が百年戦争全体の流れに与えた影響は大きく、ラ・ロシェルは9月7日に陥落、エドワード3世による大規模なフランス親征 も延期された。イングランド艦隊を再建するため、国内では14の都市がフル稼働したが、それでも1年を要した。[5] 1373年 4月、ようやく再建されたイングランド艦隊はポルトガル 遠征を行い、成功を収めた。
関連項目
脚注
参考文献