FCレッドブル・ザルツブルク (FC Red Bull Salzburg)は、オーストリア のザルツブルク を本拠地とするサッカークラブである。オーストリア・ブンデスリーガ に加盟し、SKラピード・ウィーン やFKアウストリア・ウィーン と共にリーグを代表する強豪である。 スポンサーの制限により、クラブはFCザルツブルク (FC Salzburg)としても知られており、UEFAの大会でプレーする際には修正されたエンブレムと共に使用している。
2017年に国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS)が発表したクラブ世界ランキングで10位にランクされた[2] 。
歴史
1930年代
1930年代まで存在していたFCラピード・ザルツブルクとFCヘルタ・ザルツブルクの合併により1933年9月13日にSVアウストリア・ザルツブルク(SV Austria Salzburg) として創設された。同じくザルツブルク を本拠地とするSAK 1914ザルツブルクの陰に長年隠れていたが、第二次世界大戦 後に徐々に頭角を現すようになり [要出典 ] 、1953年に1部リーグにあたるオーストリア・ブンデスリーガ (当時のリーグ名は「Staatsliga」)に昇格した。
1960年代-1980年代
1971年にはオーストリア・ブンデスリーガ (以下「リーグ戦」と表記)とミトローパ・カップ で準優勝した。一方で、1950年代には1度、1960年代には3度、1970年代と1980年代に1度ずつ2部リーグへの降格も経験し、特に1960年代はオーストリアを代表するエレベーターチームの1つであった。 [要出典 ] 財政的な理由から1985年には同じくザルツブルクを本拠地とし、当時はSVアウストリア・ザルツブルクよりも好成績を収めていたライバルのSAK 1914ザルツブルクとの合併を自ら希望するものの、先方に断られるなどクラブの将来性が見えず、クラブの存続自体が長年に渡り危ぶまれていた。 [要出典 ]
FKアウストリア・ウィーン 、ラピード・ウィーン 、そしてFCヴァッカー・インスブルック の強豪クラブがリーグ優勝やカップ優勝を重ねる中、SVアウストリア・ザルツブルクはオーストリア・ブンデスリーガの弱小クラブの一つであった。 [要出典 ]
ちなみに1973年よりスポンサー名がクラブ名に付くようになり、クラブ名は"SV Gerngroß A. Salzburg"(1973-1976)、"SV Sparkasse Austria Salzburg"(1976-1978)、"SV Casino Austria Salzburg"(1978-1997)、"SV Wüstenrot Salzburg"(1997-2005)と変更された。
1990年代
長年スポンサーであったオーストリア・カジノ社が積極的に投資するようになり、ヴォルフガング・ファイアージンガー 、トーマス・ヴィンクルホーファー 、ハイモ・プファイフェンベルガー 、ヘリベルト・ヴェーバー 、オットー・コンラード など数多くのオーストリア代表選手が所属するようになる。また、オリバー・ビアホフ (後にドイツ代表 に選出)が1991年に入団してリーグ得点王になった。1992年および1993年にはオーストリア・ブンデスリーガで準優勝、1994年にオットー・バリッチ 監督の下、リーグ優勝を果たした。
UEFAカップ1993-94 では決勝に進出し、イタリアのインテルナツィオナーレ・ミラノ に敗れたが、準優勝の成績を残した。
1994-1995のシーズンで2年連続のリーグ優勝。UEFAチャンピオンズリーグ 1994-95 にも出場し、グループリーグでオランダのアヤックス にホームとアウェーで引き分け、ギリシャのAEKアテネ には勝利するが、イタリアのACミラン に敗れて、同勝ち点ながら得失点差でグループリーグで敗退した。
1995-1996シーズンはクラブ内の権力争いもありチームがなかなかまとまらずリーグ戦で8位に終わった。
1996年の夏には数多くの主力選手を放出、中心選手であったヴォルフガング・ファイアージンガーがボルシア・ドルトムント へ、ハイモ・プファイフェンベルガーがヴェルダー・ブレーメン へ、そしてオットー・コンラートがレアル・サラゴサ へ移籍したが、レネー・アウフハウザー 、ロベルト・イベルツベルガー 、ゲルノット・プラスネッガー など若手も育ち、リーグ戦で3度目の優勝を果たした。
1998年以降はリーグ戦、オーストリア・カップ 、そしてヨーロッパカップでも結果を残す事が出来ず、オーストリア・ブンデスリーガでは優勝争いに絡むどころか、2部降格の危機もあった。
2000年代
2000年以降もオーストリア・ブンデスリーガで6位、6位、3位、7位、9位と目立った結果を残す事が出来ず、オーストリア・カップでも当時オーストリア2部に属していたFCケルンテン やザンクト・ペルテン に敗北するなど1990年代の黄金時代を知るザルツブルク・サポーターの期待を裏切り続けた。また財政上も非常に厳しい時期が続き、クラブは破産寸前の状態となり、プロサッカーの維持のみならず、クラブの存続自体が危ぶまれていた。
2005年、レッドブル などを取り扱うオーストリアの飲料メーカーのレッドブル (企業) (以下「レッドブル社」)がクラブを買収。名称が「レッドブル・ザルツブルク」に変更された。
2005-06シーズンはFCヴァッカー・インスブルック 、ハンブルガーSV 、1.FCカイザースラウテルン などの監督を務めたクルト・ヤーラ が監督に就任。
バイエルン・ミュンヘン から元ドイツ代表のトーマス・リンケ とアレクサンダー・ツィックラー 、ボーフム からスロベニア代表のアレクサンデル・クナウス (英語版 ) 、チェコ代表のヴラティスラフ・ロクヴェンツ などが加入、リーグ戦で準優勝を果たす。しかしシーズン終了後、選手の移籍金問題でフロントと対立したためクルト・ヤーラは監督を解雇される。
2006年の夏に元イタリア代表監督のジョバンニ・トラパットーニ と元ドイツ代表主将のローター・マテウス がそれぞれ監督とヘッドコーチに就任。また、ニコ・コヴァチ (元バイヤー・レバークーゼン 、ハンブルガーSV 、バイエルン・ミュンヘン、ヘルタ・ベルリン )、ヨハン・フォンランテン (元PSVアイントホーフェン 、NACブレダ 、ブレシア )、ティモ・オクス (元1860ミュンヘン )、レモ・マイヤー (元FCルツェルン 、1860ミュンヘン)、ホルヘ・ヴァルガス (元レッジーナ 、エンポリ 、リヴォルノ )、クリスティアン・ティファート (元VfBシュトゥットガルト )、マークス・シュタインヘーファー (元バイエルン・ミュンヘン・サテライト)などを獲得。2006年12月にガンバ大阪 の宮本恒靖 と浦和レッズ の三都主アレサンドロ を獲得。オーストリア・カップ では準決勝に進出し、リーグ戦は10年ぶりとなる4度目のリーグ優勝を果たした。
UEFAチャンピオンズリーグ 2006-07 は予選3回戦でスペイン のバレンシアCF に敗れた。
2007-08シーズンはリーグ戦で準優勝の成績を残した。UEFAチャンピオンズリーグ 2007-08 は予選3回戦でウクライナ のシャフタール・ドネツク に敗れた。
2007年6月12日、様々な見解の違いから(公式ホームページ日本語版) [要出典 ] 、ヘッドコーチのローター・マテウスを解任した。
2008-09シーズンよりアヤックス・アムステルダム 、FCポルト 、AZアルクマール などで指揮を執ったオランダ 出身のコー・アドリアーンセ が監督に就任した。
バイエルン・ミュンヘンとの提携関係
2005年より2012年までドイツ・ブンデスリーガ のFCバイエルン・ミュンヘン と提携関係を結んでいた関係から多くの元FCバイエルン・ミュンヘンの選手・スタッフがレッドブル・ザルツブルクに所属し深い関係を築いていた。当時のクラブスポンサーもFCバイエルン・ミュンヘンと同じアディダス とアウディ であった。また、「皇帝」として知られるフランツ・ベッケンバウアー のネットワークもあり、数多くの元2006 FIFAワールドカップ の実行委員会のメンバーがクラブマネジメントに携わっていた。
元FCバイエルン・ミュンヘンのクラブ関係者
元2006 FIFAワールドカップ 実行委員会のクラブ関係者
さらにトーマス・リンケ 、アレクサンダー・ツィックラー 、ニコ・コバチ 、マークス・シュタインヘーファー と往年のバイエルン・ミュンヘンの選手がレッドブル・ザルツブルクに所属していた。
2006-2007年シーズンには元バイエルン・ミュンヘンの名選手ローター・マテウス がヘッドコーチを務めていたが、2007年6月12日に解任された。後任のトルステン・フィンク も元バイエルン・ミュンヘンの選手であった。
また、日本人選手獲得の原動力となったスポーツディレクターオリヴァー・クロイツァー も元バイエルン・ミュンヘンのDFとしてドイツ・ブンデスリーガ優勝やUEFAカップ 優勝などの実績を残している。
レッドブル社のサッカークラブへの投資
レッドブル社は以前から、モータースポーツやエクストリームスポーツ に対して資本提供する事が多かったが、FCレッドブル・ザルツブルクの前身となったSVアウストリア・ザルツブルク の経営権を取得した以外にも、2006年にメジャーリーグサッカー のメトロスターズを買収、ニューヨーク・レッドブルズ として現在でも運営している。
その他にもレッドブル・グループではドイツ・ブンデスリーガ のRBライプツィヒ 、オーストリア2部 のFCリーフェリング 、そしてレッドブル・ブラジル を経営している。
また、2007年10月からガーナ でレッドブル・ガーナ を経営していたが、2013年に経営権を別の運営会社に譲った。しかし新たに命名された「West African Football Academy」とは提携関係を結んでいる。
RBライプツィヒとの関係
2016-17シーズンにレッドブル・ザルツブルクはオーストリア・ブンデスリーガを優勝、RBライプツィヒはドイツ・ブンデスリーガを2位になり、共に2017-18シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ 出場権を獲得した。しかし、チャンピオンズリーグを主催するUEFA の規約で「同一の出資者または個人が運営する2つのクラブは同時に出場することができない。」とされているため、RBライプツィヒがCLに出場できない可能性があると報じられた[3] 。しかし、UEFAは両クラブのCL出場は規約に抵触しないとして出場を認めた[4] 。
ラルフ・ラングニック は両クラブのスポーツディレクターを務めていたが、2015年にRBライプツィヒのSD職に専念することになったほか、レッドブルグループのサッカークラブを統括する役職にRBライプツィヒのCEOが就いていたが、2017年からRBライプツィヒに専念することになるなど、両クラブの独立性を高めるための分離が図られた[5] 。
レッドブル・ザルツブルクに所属する選手がライプツィヒにグループ内移籍するケースが多くみられる[6] 。2016年夏にはナビ・ケイタ 、ベルナルド らがRBライプツィヒに移籍した。2019年から過去7年間で18名の選手がレッドブル・ザルツブルクからRBライプツィヒに移籍している[7] 。
2018-19シーズンのUEFAヨーロッパリーグ では、両クラブがグループリーグ同組となり直接対決が実現した。2018年9月20日、RBライプツィヒのホームで行われた試合は3-2でアウェーのレッドブル・ザルツブルクが勝利し[8] 、11月29日のレッドブル・ザルツブルクのホームでの試合も1-0でレッドブル・ザルツブルクが勝利した[9] 。
レッドブル社と一部のサポーターの対立
タイトル
国内タイトル
オーストリア・ブンデスリーガ1部
優勝 17回 1993-94, 1994-95, 1996-97, 2006-07, 2008-09, 2009-10, 2011-12, 2013-14, 2014-15, 2015-16, 2016-17, 2017-18, 2018-19, 2019-20, 2020-21, 2021-22, 2022-23
準優勝 8回 1970-71, 1991-92, 1992-93, 2005-06, 2007-08, 2010-11, 2012-13, 2023-24
オーストリア・カップ
優勝 8回 2011-12, 2013-14, 2014-15, 2015-16, 2016-17, 2018-19, 2019-20, 2020-21, 2021-22
準優勝 5回 1973-74, 1979-80, 1980-81, 1999-00, 2017-18
オーストリア・スーパーカップ
エアステリーガ (オーストリア2部リーグ)
オーストリア・室内サッカーカップ
国際タイトル
過去の成績
シーズン
リーグ戦
オーストリア・カップ
ディビジョン
順位
試
勝
分
敗
得
失
点
1993-94
オーストリア・ブンデスリーガ
1位
36
21
9
6
56
18
51
ベスト16
1994-95
1位
36
15
17
4
48
24
47
準決勝敗退
1995-96
8位
36
10
14
12
53
51
44
ベスト16
1996-97
1位
36
19
12
5
54
25
69
準決勝敗退
1997-98
4位
36
16
8
12
48
33
56
準々決勝敗退
1998-99
4位
36
15
12
9
55
40
57
準々決勝敗退
1999-00
6位
36
12
10
14
39
45
46
準優勝
2000-01
6位
36
13
10
13
49
45
49
ベスト16
2001-02
6位
36
13
10
13
42
40
49
準決勝敗退
2002-03
3位
36
15
11
10
51
46
56
準決勝敗退
2003-04
7位
36
11
5
20
44
48
38
ベスト16
2004-05
9位
36
9
9
18
37
51
36
ベスト16
2005-06
2位
36
20
3
13
62
42
63
2回戦敗退
2006-07
1位
36
22
9
5
70
23
75
準決勝敗退
2007-08
2位
36
18
9
9
63
42
63
2008-09
1位
36
23
5
8
86
50
74
ベスト16
2009-10
1位
36
22
10
4
68
27
76
ベスト16
2010-11
2位
36
17
12
7
53
31
63
2回戦敗退
2011-12
1位
36
19
11
6
60
30
68
優勝
2012-13
2位
36
22
11
3
91
39
77
準決勝敗退
2013-14
1位
36
25
5
6
110
35
80
優勝
2014-15
1位
36
22
7
7
99
42
73
優勝
2015-16
1位
36
21
11
4
71
33
74
優勝
2016-17
1位
36
25
6
5
74
24
81
優勝
2017-18
1位
36
25
8
3
81
29
83
準優勝
2018-19
1位
32
25
5
2
79
27
52
優勝
2019-20
1位
32
22
8
2
110
34
50
優勝
2020-21
1位
32
25
2
5
94
33
51
優勝
2021-22
1位
32
25
5
2
77
19
52
優勝
2022-23
1位
32
23
8
1
67
22
49
準々決勝敗退
2023-24
2位
32
20
7
5
74
29
42
準決勝敗退
欧州の成績
現所属メンバー
2023年 9月2日 現在[10]
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルール に基づく。
監督
ローン移籍
in
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルール に基づく。
out
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルール に基づく。
歴代監督
歴代所属選手 (SVアウストリア・ザルツブルク時代)
歴代所属選手 (FCレッドブル・ザルツブルク時代)
脚注
^ Stadium official website
^ Club World Ranking - IFFHS(2018年1月1日16閲覧)
^ “ザルツブルクとライプツィヒ、CL出場めぐる“RB問題”の顛末。“兄弟クラブ”に向けられた懸念 ”. フットボールチャンネル (2017年6月30日). 2019年9月18日 閲覧。
^ “ライプツィヒと南野のザルツブルク、両方CL出場可能へ…UEFAが発表 ”. Goal.com (2017年6月21日). 2019年9月18日 閲覧。
^ “分離は「建前」。RBライプツィヒと レッドブル帝国の領土拡大は続く ”. footballista (2019年5月9日). 2019年9月18日 閲覧。
^ “RBライプツィヒはなぜドイツで忌み嫌われ、でも強いのか? ”. footballista (2016年12月20日). 2019年9月18日 閲覧。
^ “ライプツィヒ、ザルツブルクからヴォルフ獲得 ”. Kicker日本語版 (2019年1月23日). 2019年9月18日 閲覧。 “RBザルツブルクから過去7年で通算18人目となる、”
^ “ザルツブルク、敵地でライプツィヒとの“レッドブル対決”を制す…南野拓実は途中出場 ”. Goal.com (2018年9月21日). 2019年9月18日 閲覧。
^ “ザルツブルクがライプツィヒ下す! GS全勝で決勝Tへ…南野は途中出場 ”. サッカーキング (2018年11月30日). 2019年9月18日 閲覧。
^ “TEAM ”. レッドブル・ザルツブルク公式サイト. 2023年2月20日 閲覧。
外部リンク
グループリーグ
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