中野並助

中野並助
検事総長
任期
1944年7月24日 – 1946年2月8日
前任者松阪広政
後任者木村篤太郎
個人情報
生誕 (1883-03-01) 1883年3月1日
群馬県南甘楽郡神川村(現・多野郡神流町
死没 (1955-05-23) 1955年5月23日(72歳没)
出身校東京帝国大学法科大学
専業弁護士

中野 並助(なかの なみすけ、1883年明治16年)3月1日 - 1955年昭和30年)5月23日)は、日本検察官。日本の検事総長弁護士群馬県南甘楽郡神川村(現・多野郡神流町)出身。

人物

東大在籍中に郷里に帰省中、偶然逢った小学生時代の同級生から薦められた一言がきっかけになり検察官の道を志す。

松阪広政とは司法省採用が同期で終生の友となる。中野死去の際は葬儀委員長を務める。

福井地方裁判所検事正在任中に、飛島組社長の選挙違反事件で、周囲の猛反対を押し切って立件に持込み、塩野季彦の賞賛を浴びる。

東京地方裁判所検事局次席検事在任中におきた帝人事件では、『世間の常識からみて贈賄するのにその会社の株券を用いる事があるだろうか?』と発言して実証主義に徹し、検事控訴は無いものとの見解を示す。これらの事件を扱った事から、当時、中野は平沼騏一郎、塩野季彦などの思想検事系列の人物と見られていたが、必ずしも思想的に平沼たちに一辺倒たったわけではなく、バランスが取れた人物だった。

太平洋戦争中は時の東條内閣に強い反感を抱き、ごく親しい友人に対して酷評する発言をしていた。

戦後、公職追放の指定を受け、検事総長退任後は弁護士業を開業。

略歴

著書

脚注

  1. ^ 『官報』第7814号、1909年7月13日。
  2. ^ 『官報』第7831号、1909年8月2日。
  3. ^ 『官報』第8647号、1912年4月19日。
  4. ^ 『官報』第8648号、1912年4月20日。
  5. ^ 『官報』第288号、1913年7月15日。
  6. ^ 『官報』第739号、1915年1月21日。
  7. ^ 『官報』第2296号、1920年3月31日。
  8. ^ 『官報』第2509号、1920年12月11日。
  9. ^ 『官報』第3297号、1923年7月26日。
  10. ^ 『官報』第3346号、1923年10月16日。
  11. ^ 『官報』第3387号、1923年12月6日。
  12. ^ 『官報』第291号、1927年12月16日。
  13. ^ 『官報』第283号、1927年12月7日。
  14. ^ 『官報』第1280号、1931年4月9日。
  15. ^ 『官報』第1754号、1932年11月2日。
  16. ^ 『官報』第2054号、1933年11月4日。
  17. ^ 『官報』第2262号、1934年7月17日。
  18. ^ 『官報』第2844号、1936年6月26日。
  19. ^ 『官報』第3030号、1937年2月10日。
  20. ^ 『官報』第3034号、1937年2月16日。
  21. ^ 『官報』第3035号、1937年2月17日。
  22. ^ 『官報』第3268号、1937年11月22日。
  23. ^ 『官報』第3356号、1938年3月14日。
  24. ^ 『官報』第3380号、1938年4月12日。
  25. ^ 『官報』第3393号、1938年4月28日。
  26. ^ 『官報』第3459号、1938年7月15日。
  27. ^ 『官報』第3917号、1940年1月30日。
  28. ^ 『官報』第3925号、1940年2月8日。
  29. ^ 『官報』第4361号、1941年7月22日。
  30. ^ 『官報』第4369号、1941年7月31日。
  31. ^ 『官報』第4370号、1941年8月1日。
  32. ^ 『官報』第4785号、1942年12月22日。
  33. ^ 『官報』第4861号、1943年3月29日。
  34. ^ 『官報』第4914号、1943年6月2日。
  35. ^ 『官報』第5258号、1944年7月25日。

関連項目

先代
松阪広政
検事総長
1944年 - 1946年
次代
木村篤太郎
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