| この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "井伊直憲" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年11月) |
井伊 直憲(いい なおのり)は、江戸時代末期の大名で、近江彦根藩第17代(最後)の藩主。明治維新後に華族(伯爵)となった。
安政の大獄で有名な大老・井伊直弼の二男。母は側室の西村氏・里和。幼名は愛麿。号は稲香軒。最初の妻は有栖川宮幟仁親王の王女・宜子女王。2番目の妻は鍋島直紀の娘。子は井伊直忠(二男)。孫に昭和28年(1953年)から36年間にわたって彦根市長を務めた井伊直愛がいる。
経歴
父・直弼が実兄(直憲の伯父)直亮の世子だった時代に生まれる。実質的な長男(兄は生後間もなく夭逝)であったが、側室の子でもあり、直弼の生前に嫡子としての届け出はなされていなかった。
安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変で直弼が暗殺された後、彦根藩は幕閣の政治的配慮により取り潰しを免れ、万延元年(安政から改元)4月28日に13歳(数え年)で家督を相続した(直弼の死はただちに知れ渡っていたが、藩は形の上で直弼の存命を装い、跡目相続の手続きを認められた)。大老として辣腕を振るった父とは対照的に地味な性格だった。同年8月26日、従四位下に叙位。左近衛権少将に任官し、掃部頭を兼任する。
文久2年(1862年)11月20日、松平春嶽らによる幕政改革(文久の改革)において、父・直弼の専横・圧政を糾弾され、20万石へ減封された。これに先立ち、家老・岡本半介の進言を受け入れて、父の腹心であった長野主膳と宇津木景福を処刑しているが、処分は緩和されず、譜代筆頭でありながら幕府との関係は険悪化する。それでも天誅組が挙兵した時は幕命により出兵し、鎮圧に貢献した。
元治元年(1864年)4月18日、左近衛権中将に転任。掃部頭如元。池田屋事件や禁門の変での功により同年8月22日、旧領のうち3万石を回復する。
慶応2年(1866年)、第二次長州征討では高田藩兵とともに彦根藩兵が芸州口の先鋒となったが、大村益次郎の訓練を受けた長州藩諸隊の散兵戦術に旧式の装備・戦法で臨んだため、大敗を喫する。以後、藩内では谷鉄臣や大東義徹ら勤王派が台頭し、徳川慶喜に近い岡本半介の影響力が低下する。
慶応4年(1868年)、戊辰戦争では前哨戦となる鳥羽・伏見の戦いで、谷鉄臣らの藩兵が最初から新政府軍に属して東寺や大津を固めた。その後、東山道鎮撫総督に属し、近藤勇の捕縛に加わったが、小山の戦闘で大鳥圭介らの旧幕府軍に撃破される。彦根藩兵はその後、白河口から会津に転戦する。
明治2年(1869年)6月、戊辰戦功により賞典禄2万石を付与された。谷や大東、西村捨三ら下級武士出身者主導の藩政改革を承認し、人材登用を推進する。同年7月8日、彦根藩知事となる。
明治4年(1871年)、アメリカおよびイギリスに遊学する。随員に、専修大学の創設者となった相馬永胤がいる。ちなみに、中央大学の創設者である増島六一郎も彦根藩の出身である。同年7月14日、廃藩により知事を免ぜられる。
明治10年(1887年)、彦根の小学校の授業参観をしたことが契機となり、小学校10校に各300円を寄付した。また、旧藩校が「彦根学校」として発展するに当たり建築費や教育費を補助した。彦根学校は、現在の滋賀県立彦根東高等学校の母体となった[3]。
明治17年(1884年)7月7日、華族令により、伯爵に列せられた。
栄典
家族
脚注
注釈
- ^ 豪徳寺「忠正公神道碑」では、嘉永元年4月21日。
出典
- ^ 『明治維新人名辞典』52頁。
- ^ 『官報』第5554号、明治35年1月11日。
- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、289頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
- ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
- ^ 『官報』第610号「賞勲叙任」1885年7月14日。
- ^ 『官報』第1278号「叙任及辞令」1887年9月30日。
- ^ 『官報』第1278号「彙報 - 褒章」1887年9月30日。
- ^ 『官報』第1943号「叙任及辞令」1889年12月18日。
- ^ 『官報』第4198号「叙任及辞令」1897年7月1日。
参考文献
- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
井伊氏第35代当主(1860年 - 1902年) |
---|
直政以前 | |
---|
掃部頭家 | |
---|
|
兵部少輔家 | |
---|
※直虎は実態としては井伊家当主だが代数には含めない慣例である |
彦根藩第16代藩主 (1860年 - 1871年) |
---|
佐和山藩 | |
---|
彦根藩 | |
---|
※通例では代数に含まれない。
『新修彦根市史2巻 通史編近世』(2008年)66頁では、井伊直継を2代藩主としている。
彦根城博物館では、通例にしたがって直継を数えないが、「当主」という表現を使っている(例;井伊直弼 13代当主)。 |