円妙寺(えんみょうじ)は、三重県桑名市にある日蓮宗の寺院である。定綱系久松松平家第2代当主で伊勢桑名藩主の松平定良の菩提寺として建立され、定良霊廟と一族縁者の墓が存在する。定良霊廟、養仙院の墓は桑名市指定文化財に指定されている。旧本山は身延山久遠寺、勇師法縁。
歴史
明暦2年(1656年)、当時の伊勢桑名藩主である松平定良が病に臥せった折、実母である曜安院は、自らが信仰する[1]日蓮宗の僧侶で、かつて尾張(現・名古屋市)大光寺住職であった日隆に病気平癒の祈祷を依頼した[2]。日隆は桑名城下の顕本寺に逗留して祈祷したが、定良は同年7月18日に京都で客死する[2]。定良が病の加治祈祷で日蓮宗を信仰したこともあり、これまでの桑名藩久松松平家歴代藩主の菩提寺である浄土宗照源寺ではなく、新たに日蓮宗寺院を定良の菩提寺として建立することになった[3]。そこで、かつて真言宗霊応寺があった跡地(現・三重県立桑名高等学校の道を挟んで北側)に、顕本寺の塔頭寺院を元にして、定良の法号より光徳山円妙寺と号する一寺を建立、日隆がその開山となった[2]。また、塔頭寺院として、定良の殉死者である三名の院号をそのまま号した一安院、法性院、蓮心院も建立され、それぞれの菩提も弔われた[1]。境内は約9,000坪にも及ぶ大寺院であった[4]。
定良には嗣子がなかったので、本家である伊予松山藩の久松松平家から、松平定重が養嗣子として迎えられ次代藩主となった[1]。定重は、実母である養仙院が天和3年(1684年)に亡くなると、江戸高輪に高林山養仙寺と号する一寺を建立して菩提を弔ったが、その頃江戸幕府は新しい寺院の建立を禁じたため、そのまま存続させることができなくなった[5]。そこで、養仙院が日蓮宗を信仰していたこともあり[1]、領国桑名で同じ日蓮宗の菩提寺である当寺の境内へ移転させ、養仙院の法号から養珠庵と仙妙庵と号する二つの塔頭寺院として形を変え、各庵5人扶持の寺領200石で存続させた[5]。また、養仙院の墓は松山にあったが、定重により当寺境内にも建立された[1]。
宝永7年閏8月15日(1710年10月7日)、桑名藩主である久松松平家は越後高田藩へ国替えが行われたが[6]、当寺は移ることなく当地で存続していた[1]。しかし、宝暦年間(1751年 - 1764年)に火災に遭い境内が全焼したので、当時の旧桑名藩主・久松松平家の領国である陸奥白河藩へ、当寺と塔頭の一安院、法性院、蓮心院は移転した[1]。ただし、養珠庵と仙妙庵と墓地はそのまま当地に残った[1]。
文政6年(1823年)、白河藩の久松松平家は旧領国である桑名へ再び国替えとなり、当寺も塔頭三院と共に桑名に戻されることになった[5]。当寺が元あった場所は焼けたままで建物も無かったが、ちょうどその時、近隣に在った大福田寺が移転するということになったので、その大福田寺跡(現・大福田寺所在地)に入った[4]。この時に養珠庵と仙妙庵は廃庵となったが[5]、それまでどこで存続していたのかはっきりとわかっていない[1]。一説では、養仙院墓の近くにあって、廃庵となっても天保10年(1839年)頃には建物くらいは残っていただろうと考えられている[1]。
弘化4年12月(1848年)、当寺と大福田寺の場所の入れ替わりがあった[7]。当寺はそれまで大福田寺が在った、日当たりも眺望も優れたすぐ東側の丘の上に移転し、大福田寺は元々在った場所に戻る形となり、それぞれ現在に至っている[4]。この入れ替わりの理由は不明であるが、一説によれば、大福田寺側に問題があり懲罰的な意味合いで、それまでの条件の良い土地を追われ、元の谷間の窪地に戻されたのではないかとしている[4]。ただし、墓地の移転は行われず、大福田寺の墓地は丘陵上(現・円妙寺の南側)に残り、当寺の墓地も現本堂から少し離れた創建時の場所から移転されることなく現在に至る[4]。
昭和20年(1945年)、太平洋戦争の空襲を受け、ほとんどの境内の建物や寺宝が焼失する中[5]、嘉永年間に建てられた山門だけは被害を免れた[4]。現本堂は昭和47年(1972年)に再建されたものである[8]。
境内
文化財
桑名市指定史跡
- 松平定良公霊廟附養仙院殿墓 - 昭和41年(1966年)11月22日指定。当寺墓地の北隅に在り東の方角を向いている。石廟造り、中央に位置する高さ4mの墓が松平定良墓、その後方は三名の殉死者の墓で、右から堀田一可、多賀道次、長瀬政直である。付近には藩主一族の墓もいくつか点在している。養仙院殿墓は定良霊廟より東側の少し斜面を下りた所に独立して建っている[3]。
他
脚注
注釈
- ^ a b c d e f g これらの文化財が列記されている文献[5]には、「戦災を受けて宝物その他全焼した」ともあるので、現存するかは不明。
出典
- ^ a b c d e f g h i j 西羽晃 2010
- ^ a b c 近藤杢 & 平岡潤 1959, p. 474
- ^ a b 桑名市 指定文化財(松平定良公霊廟附養仙院殿墓), 桑名市教育委員会
- ^ a b c d e f g 西羽晃 2015a
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 近藤杢 & 平岡潤 1959, p. 475
- ^ 『寛政重脩諸家譜』第1輯 1812, p. 296
- ^ 西羽晃 2015b
- ^ a b c d e 桑名市 指定文化財所在地(円妙寺), 桑名市教育委員会
- ^ 近藤杢 & 平岡潤 1960, p. 385
- ^ a b c 近藤杢 & 平岡潤 1960, p. 275
- ^ 近藤杢 & 平岡潤 1960, pp. 385–386
- ^ 近藤杢 & 平岡潤 1960, pp. 386–387
- ^ a b c d 近藤杢 & 平岡潤 1960, p. 387
- ^ a b 『御當家御代々御名前并御法号』, 桑名市立中央図書館蔵
- ^ a b 近藤杢 & 平岡潤 1960, p. 388
- ^ 近藤杢 & 平岡潤 1960, pp. 388–389
- ^ a b 近藤杢 & 平岡潤 1960, p. 289
- ^ 近藤杢 & 平岡潤 1960, pp. 390–391
- ^ 近藤杢 & 平岡潤 1960, pp. 392–393
- ^ 近藤杢 & 平岡潤 1960, p. 286
- ^ 近藤杢 & 平岡潤 1960, p. 389
- ^ 近藤杢 & 平岡潤 1960, p. 288
- ^ 近藤杢 & 平岡潤 1960, pp. 389–390
参考文献
- 近藤杢、平岡潤『桑名市史』 本編、桑名市教育委員会、1959年3月31日、474-475頁。
- 近藤杢、平岡潤『桑名市史』 補編、桑名市教育委員会、1960年8月31日、275-289,385-393頁頁。
- 西羽晃 (2010年11月26日). “桑名歴史ニュース45 - 円妙寺と養珠院”. 桑名歴史ニュース. まぐまぐ!. 2015年11月1日閲覧。
- 西羽晃 (2015年3月18日). “桑名歴史ニュース125 - 円妙寺と大福田寺”. 桑名歴史ニュース. まぐまぐ!. 2015年11月1日閲覧。
- 西羽晃 (2015年7月1日). “徳成随風36 - 円妙寺と大福田寺” (pdf). 徳成随風. 三重県立桑名高等学校同窓会オフィシャルサイト. 2015年11月1日閲覧。
- “桑名市 指定文化財所在地(円妙寺)”. 桑名市教育委員会文化財ホームページ. 桑名市教育委員会. 2015年11月1日閲覧。
- “桑名市 指定文化財(松平定良公霊廟附養仙院殿墓)”. 桑名市教育委員会文化財ホームページ. 桑名市教育委員会. 2015年11月1日閲覧。
- 『寛政重脩諸家譜』 第1輯、國民圖書、1922年(原著1812年)、295-296頁。
- 『御當家御代々御名前并御法号』(桑名市立中央図書館蔵)。
関連項目
外部リンク
- 圓妙寺 - 公式ウェブサイト
- “桑名圓妙寺御繪圖”. 東北大学デジタルコレクション 狩野文庫データベース. 東北大学附属図書館. 2015年11月1日閲覧。