前田 夏蔭(まえだ なつかげ、1793年(寛政5年)- 1864年9月26日(元治元年8月26日))は、江戸時代後期の国学者である[1][2]。幼名は垂穂[1]、通称は健助[1]。号に鶯園[1][2]、無穂がある[2]。本姓は菅原[3]。
経歴・人物
江戸の生まれ[1][2]。清水浜臣の門人となり[1][2]、国学を学ぶ[2][4]。また考証学についても学び[2]、和歌や書画もよくした[2][3]。1854年(嘉永7年)には江戸幕府に仕え[2]、当時水戸藩主だった徳川斉昭からの信任により[4]、『大日本史』の編纂に携わる[2][4]。
その後は幕府の命により蝦夷地の取調御用に任命され[4]、『蝦夷志料』(『千島志料』とも)の編纂に携わった[1][2]。後に夏蔭は1860年(万延元年)に未完成ではあったものの一度脱稿し[2]、以降は病気の悪化により実子の前田夏繁(健次郎)らが父の後継者として執筆した[2]。この史料は夏蔭が死去した翌1865年(慶応元年)に完成した[1][2]。
主な著作物
主著
その他の著書
脚注
- ^ a b c d e f g h “前田夏蔭”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社). 2023年8月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n “前田夏蔭”. 日本大百科全書(小学館). 2023年8月9日閲覧。
- ^ a b “前田夏蔭”. 精選版 日本国語大辞典. 2023年8月9日閲覧。
- ^ a b c d e f “前田夏蔭”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(ブリタニカ・ジャパン). 2023年8月9日閲覧。
外部リンク