『南の島に雪が降る』(みなみのしまにゆきがふる)は、俳優加東大介の戦争経験手記である。初出は『文藝春秋』1961年3月号(従来1月号とあったのは誤り[1])に「ジャングル劇場の始末記 - 南海の芝居に雪が降る」として発表されたもので、テレビドラマ化・映画化され、単行本としては1961年9月に、文藝春秋新社(現:文藝春秋)から刊行された。
太平洋戦争(大東亜戦争)末期、飢えとマラリアに苦しむニューギニアの首都マノクワリで、兵士の慰安と士気高揚のため作られた劇団の物語である。加東大介(本名・加藤徳之助)軍曹が座長を務め、漫画家小林よしのりの祖父(母方で博多出身)も座員で、「快僧曹長 篠原龍照」として登場する。
概要
俳優加東大介は自身のニューギニアのマノクワリでの戦争経験談を『週刊朝日』連載「夢声対談・問答有用」のゲスト[注釈 1]で語ったところ、徳川夢声から「忘れないうちにくわしく書いておきなさい」と勧められ、文藝春秋新社の雑誌『オール讀物』の随筆欄に短文で2~3話書いておいたのが、この話の切っ掛けであった。またジャズマン小島正雄と会ったとき物語った切っ掛けから文藝春秋誌からも勧められて1960年に執筆。
『文藝春秋』1961年3月号(従来1月号とあったのは誤り[2])において「ジャングル劇場の始末記 - 南海の芝居に雪が降る」として発表したものが原本になっている。これにより第20回文藝春秋読者賞を受賞し、ベストセラーとなった。1961年4月この内容が小野田勇の脚色によって『南の島に雪が降る』の題でNHKでドラマ化され、後東宝で映画化され、この2つとも加東自身が主演して話題作となった[3]。単行本の発刊はこの映画化と同時進行で進められ、同年9月に発刊。1983年の文庫化の後も10年ごとに再版され息の長いロングセラー本となっている。
あらすじ
加東は、兄が沢村国太郎、姉が沢村貞子と、舞台関係者揃いの家庭で育ち根っからの役者。甥っ子(沢村国太郎の子)2人も、後に俳優長門裕之と津川雅彦となった(長門は戦前から子役で活動していた)。当時加東は、市川莚司の芸名で 劇団前進座に所属していたが、昭和18年(1943年)10月に召集を受けニューギニアに向かった。しかしそこは主力部隊から脱落し見放され、救援物資も届かない最果ての地。戦友たちは飢えとマラリアでバタバタと死んでゆく。いつ戦争が終わるかもわからない。希望が全くない。
そんな過酷な状況で加東は、上官からの命もあり、なんと演芸分隊を立ち上げ、熱帯のジャングルの真ん中に日本の舞台を作り、三味線弾き、ムーラン・ルージュの脚本家、スペイン舞踊の教師、舞台美術・衣装担当の友禅職人など、実に個性的なメンバーと共に、彼らは公演を始める。
ありあわせの布に絵を描いて衣装を作り、ロープをカツラにし、亜鉛華軟膏を塗りたくり白粉にする。いまその舞台を見たら、なんと粗末な舞台だと思うだろう。しかしいつ帰れるかもわからない日本兵にとって、それは夢だった。希望そのものだった。女形の内股の白さに女房を思い、小道具の長火鉢に日本を思う。その舞台を見るまでは死ねない。時には重病人を回復させるまでもの希望が、その舞台にはあった。
長谷川伸『関の弥太っぺ』[注釈 2]の舞台では、紙の雪を降らせ、客席から毎回、どよめきと歓喜の声があがった。加東らは雪景色を充分堪能させてから登場するようにしていたが、ある日の公演で、いくら待ってもしんとしている。不審に思って舞台の袖からのぞいてみると、数百名いた兵隊が皆、涙を流していた。聞いてみると彼らは東北の部隊だった。
かくして日本への帰還に至るまで、兵たちを慰安するため、ほぼ休演日無しで公演を行っていった。
出版書誌
初出は1961年1月の『月刊 文藝春秋』「ジャングル劇場の始末記 - 南海の芝居に雪が降る」で発表。未収録だった部分や戦後エピソードなどが補記し同年に単行本化。博多仁輪加の篠原龍照曹長が本土帰国に際し、連合軍の検閲の目をかすめ持ち帰った「演芸詳報 - マノクヮリ支隊演芸分隊」資料があり、本作の資料として役に立ったと、加東は篠原に感謝を述べている[4]。
本作を原作に、同年に加東が主演しテレビドラマおよび映画化され代表作となった。
- 1961年 文藝春秋新社
- 『昭和戦争文学全集』第9巻に収録(集英社、1964年)
映像化作品
1961年にNHKテレビドラマ化と、東宝の映画化がなされた。1964年に再度テレビドラマ化、1995年にも映画化された。
テレビドラマ 1961年 NHK
加東自身の主演で、1961年4月30日にNHK総合の『テレビ指定席』(日曜22:35 - 23:35)でドラマ化(映画化の前)されたが[5]、写真のみで映像録画は残っていない。
映画1961年版
加東の原作(文藝春秋「ジャングル劇場の始末記 - 南海の芝居に雪が降る」)に沿って映画化、自身が自らの役を演じた。戦線背後での密林中での演芸会が中心で戦後エピソード等は一切ない。当時の人気喜劇役者が多数出演した。
- 出演
- 特別出演
主題歌・挿入歌
『南の島に雪が降る』[6]
『さらばマノクヮリ』
テレビドラマ 1964年 フジテレビ
また同じ加東自身の主演で、映画化後の1964年1月8日から同年1月29日までフジテレビ系列でドラマ化された。全4回。放送時間は毎週水曜22:15 - 22:45(JST)[7]。
- 4回連続ドラマ『南の島に雪が降る』
- 原作 :加東大介
- 演出 :福中八郎
- 主な出演:加東大介、藤木悠
映画1995年版
原作の演芸会を中核にして日本人の戦争への態度を問う意欲的な作品である。戦後未帰還の日本兵を捜しに来るエピソードが前後に付け加えられ、あらすじは大きく変わっている。演芸会は慰安ではなく確実な死を覚悟に前線に転じる兵士を送る儀式と描かれた。主人公を「須藤」名にしたり地名を架空の「マヤサルミ」に変更したなどで、原作・前作映画を知っている人々から批判された[8]。
- 出演
その他
フジテレビドラマ『6羽のかもめ』(脚本倉本聰、1974 - 1975年)でも、加東が演じる人物(自身の遺作で、元俳優の設定)が、マノクワリで芝居をしたと言うエピソードが紹介される。
VHSビデオ・DVD・BD
- 『東宝・新東宝戦争映画DVD 45号(南の島に雪が降る 1961年) (DVD付雑誌) (東宝・新東宝戦争映画DVDコレクション)』出版社: デアゴスティーニ・ジャパン、2015年9月29日発行
- 『南の島に雪が降る』1995年版VHSビデオ、販売元:徳間ジャパンコミュニケーションズ、1996年12月6日発売
- 『舞台「南の島に雪が降る」』2015年中日劇場版DVD、販売元:M.B.Dメディアブランド、2015年12月1日発売
- 『南の島に雪が降る』1961年版DVD、販売元:東宝、品番:TDV30092D、2020年8月19日発売
舞台化作品
1962年以降、数々の舞台で上演されてきた。
1962年『南の島に雪が降る』(森繁劇団)
2001年『南の島に雪が降る』(劇団アルファー)
2014年『南の島に雪が降る』(ベッド&メイキングス)
2015年『南の島に雪が降る』(前進座)
戦後70年特別企画。
2015年『南の島に雪が降る』(中日劇場)
戦後70年特別企画。中日劇場開場50周年記念公演。
2015年『南の島に雪が降る』(劇団アルファー)
- 開演:2015年8月12日~16日[11]
- 会場:シアターグリーン BOX in BOX THEATER
批評・評論
脚注
注釈
- ^ 「夢声対談・問答有用」第378回(『週刊朝日』1958年7月13日号、pp.26-)が加東大介の回にあたる。
- ^ 映画、舞台化では同作家のより知名度の高い「瞼の母」(マノクワリ歌舞伎座杮落し公演の一本)に差替えられることが多い。
出典
参考文献
- 伊東敬『海外事情』1972年12月号「海外旅行報告(特集)」
- 三野恵『大法輪』2008年12月号「望郷と信仰--加東大介『南の島に雪が降る』考 」
- 水島総『キネマ旬報』1996年4月15日、タイトル:増淵健の「南の島に雪が降る」評に対する反論
- 吉田嗣延 編『季刊南と北』1962年9月、「部分タイトル:私家版「南の島に雪が降る」 」
- 『映画評論、新映画』1961年11月、新映画 発行、
- 『シナリオ : 映画芸術の原点』日本シナリオ作家協会 発刊、1961年9月
- 『芸能画報』1961年10月、サン出版社
- 『キネマ旬報』1961年11月、キネマ旬報社、「加東大介 クロース・アップ」p15、日本映画紹介「南の島に雪が降る」
- 『週刊平凡』1961年9月、「自作自演『南の島に雪が降る』真鶴半島ロケ」渡辺明、p11
外部リンク