幾春別駅(いくしゅんべつえき)は、かつて北海道三笠市幾春別町1丁目に置かれていた、北海道旅客鉄道(JR北海道)幌内線(支線)の駅(廃駅)である。電報略号はイク。事務管理コードは▲131523[2]。
歴史
1976年の幾春別駅と周囲1 km範囲。左が岩見沢方面。すぐ南を幾春別川が西へ流れ、右端上流側では北から奔別川が合流する。単式ホーム1面1線、駅舎横の貨物ホームに引込み線、駅裏に5-6本の仕分線、外側に転車台の残る機回し線を有する。各線は右方駅端で一旦合流した後3本に分かれ、再び合流して折り返し線となって長く伸びている。
三笠から幾春別まで延伸する要因となった北炭幾春別炭鉱は、写真右端、幾春別川を挟んだ川向にあった。駅端の折り返し線は元来この炭鉱の石炭積み込み線であり、ホッパーが設けられて、川向からコンベアで運ばれた石炭がここで貨車に積まれた[3][4]。1957年(昭和32年)の閉山から約20年が経ち、その痕跡は殆ど残されていない。岩見沢方分岐点付近から上へ180°近いカーブを描いているのは、この写真の5年前に閉山した住友奔別炭鉱の専用線で[3][4]、炭鉱設備や軌道跡が残されている。またその分岐点の先の木々の影になっている辺りから左端川沿いに見える営林署管轄のストックヤード(土場)中央へ向かって引込み線が伸びていたが[3][4]、既に撤去されて久しく、こちらは軌道跡が畦道等に転用されている。このヤードへは昭和30年まで幾春別森林鉄道が敷かれていた[3][4]。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
官営幌内鉄道幾春別支線は、幌内太駅(三笠駅)より1マイル延伸しただけで建設を中断し放置されていたが、幾春別からの出炭及び販売を当初から目標として掲げ、当鉄道の業務を委託された北有社によって延伸開業された。当初は空知集治監の囚人が炭鉱労役に就いていたため、出炭駅である当駅や幌内駅の一般人の利用は多くなかったが、集治監の廃止による一般人の採用や幾春別炭砿の採炭量増加、奔別炭砿の開発により周辺人口が増えたこともあり、利用客が徐々に増え、特に戦後の増産体制によって一気に増加した。年間乗降客数は1958年度(昭和33年度)に746,441人を記録しており、幌内線では三笠駅に次いで多かった。一方貨物の方は2つの大手炭鉱を擁していた[注 1]ため取扱量は同線で最大で、1963年(昭和38年)には発送量1,316,213 tと幌内駅の2倍以上を記録している。このため貨車扱い要員が多く駅員数も最多で、特に戦時中は女子採用者が多く、重労働であったためか、1942年(昭和17年)には70人という大所帯であった。
2021年現在でもホームの末端部と、構内にあったアカダモの木が残っている。
年表
駅名の由来
当駅が所在した地名より。幾春別川の川名から付いたもので、地名としては幾春別川上流域を指す[10]。
1882年(明治15年)前後の幌内村形成後から開拓者が入り始め、「郁春別」の当て字を付け、それが駅名となり、上流域の地名となった[10][11]。
1889年(明治22年)5月28日に幾春別村が発足し、駅名も字が変更された[12][11]。
駅構造
廃止時点で、1面1線の単式ホームを有する無人駅であった。
駅周辺
隣の駅
- 北海道旅客鉄道(JR北海道)
- 幌内線
- 弥生駅 - 幾春別駅
脚注
注釈
- ^ 昭和32年までは住友奔別炭砿と北炭幾春別炭砿、昭和34年からは住友奔別炭砿と同弥生炭砿。
- ^ 山県は明治40年倒産。その後に日本興業(奔別炭礦/山下鉱業/山下汽船鉱業)、昭和2年12月から住友合資(住友鉱業/井華鉱業/住友石炭鉱業)と所有者及び社名変遷。
出典
関連項目
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