広瀬王(ひろせおう、生年不詳 - 養老6年1月28日(722年2月18日))は、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族。名は広湍王とも記される。敏達天皇の孫で、春日皇子の子[1]。官位は正四位下・大蔵卿。
経歴
天武天皇10年(681年)川島皇子・忍壁皇子らと『帝紀』や上古諸事(『本辞』・『旧辞』など)の編修を命じられる[2]。天武天皇13年(684年)大伴安麻呂とともに畿内に派遣され新都造営に相応しい地を視察し占う(この時の冠位は浄広肆)[3]。
持統天皇6年(692年)持統天皇による伊勢行幸が行われた際、留守官を勤める[4]。大宝2年(702年)持統上皇の崩御に際して、造大殿垣司および御装司副を勤めた(このときの位階は従四位下)。
その後、和銅元年(708年)大蔵卿、養老2年(718年)正四位下に叙任されている。元正朝の養老6年(722年)1月28日卒去。最終官位は散位正四位下。
子孫は臣籍降下し香山真人姓を名乗った[1]。
官歴
『六国史』による。
脚注
- ^ a b 宝賀[1986: 70]
- ^ 『日本書紀』天武天皇10年3月17日条
- ^ 『日本書紀』天武天皇13年2月28日条
- ^ 『日本書紀』持統6年3月3日条
参考文献
- 宇治谷孟『日本書紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1988年
- 宇治谷孟『続日本紀 (上)』講談社〈講談社学術文庫〉、1992年
- 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年