後伏見天皇(ごふしみてんのう、1288年4月5日〈弘安11年3月3日〉- 1336年5月17日〈延元元年4月6日〉[1])は、日本の第93代天皇(在位:1298年8月30日〈永仁6年7月22日〉- 1301年3月2日〈正安3年1月21日〉)。諱は胤仁(たねひと)。
伏見天皇の第一皇子。母は、参議左近衛中将五辻経氏の娘、経子。持明院統。
略歴
中宮西園寺鏱子(永福門院)の養子となり、その手元で育てられた。正応2年(1289年)、数え2歳で立太子。永仁6年(1298年)、父・伏見天皇からの譲位により、11歳で即位。伏見上皇が院政を執り行った。
2代続けて持明院統が天皇となったため、勢力を巻き返した大覚寺統や幕府の圧力を受け、正安3年(1301年)、大覚寺統の後宇多上皇の第一皇子・後二条天皇に譲位した。この際、新たに上皇となった後伏見はまだ14歳で皇子がなく、次の皇太子には異母弟の富仁親王(後の花園天皇)がなった。
徳治3年(1308年)、後二条天皇が急死し、後伏見天皇の弟の花園天皇が即位。しばらく後、伏見上皇が出家して院政を停止したので、これを引き継いで正和2年(1313年)から文保2年(1318年)の間、院政を敷いた。花園天皇の在位の間、幕府と折衝し持明院統と大覚寺統から交互に天皇を出すと言う取り決めを行おうとした(文保の御和談)が失敗に終わった(両統迭立を参照)。
文保2年(1318年)、在位10年で花園天皇は大覚寺統の後醍醐天皇に譲位した。その皇太子には大覚寺統の邦良親王(後二条天皇皇子)がなり、後伏見上皇の皇子・量仁親王(光厳天皇)はその次の皇太子となることが決められた。嘉暦元年(1326年)に邦良親王が病死し、幕府の裁定で量仁親王がようやく皇太子に立った。しかし、後醍醐天皇は譲位に応じず、元弘元年(1331年)幕府に反旗を翻し、捕らえられた。幕府により皇太子量仁が即位して光厳天皇となり、後伏見上皇はしばらく院政を行った。
元弘3年(1333年)、足利尊氏が後醍醐天皇に呼応して京都の六波羅探題を襲撃すると、北条仲時らに擁され、光厳天皇・花園上皇とともに東国に逃れようとした。しかし道中で仲時らは討ち死にし、両上皇と天皇は捕らえられて京都に連れ戻された。光厳天皇は廃位され、後伏見上皇は出家剃髪した。
建武3年/延元元年(1336年)、崩御。宝算49。
系譜
系図
后妃・皇子女
在位中の元号
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方形堂。深草北陵には持明院統歴代が葬られており、「深草十二帝陵」とも称される。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
付記
加後号の付いている天皇のうち、その名前から「後」を抜いた名前の天皇が直前に即位している(代数が連続している)のは、後伏見天皇が唯一である。
脚注
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