『年末時代劇スペシャル 忠臣蔵』(ねんまつじだいげきスペシャル ちゅうしんぐら)は、1985年12月30日・12月31日に日本テレビ系列で放送されたユニオン映画製作の時代劇。「年末時代劇スペシャル」の第1作である。初日の前編・2日目の後編ともに21:02 - 23:24(日本標準時)に放送。直前の21:00 - 21:02には予告番組『今夜の忠臣蔵』が放送された。
概要
日本テレビとユニオン映画制作の時代劇ドラマで、忠臣蔵事件(赤穂事件)を描いた作品である。
チーフプロデューサーの岡田晋吉は当初1年間の連続物時代劇として企画した[1]が、編成会議にて上層部に「時代劇は受けない」「今時、時代劇でもないだろう」と受け入れられなかった。しかしその後、岩淵康郎(後の静岡第一テレビ社長)や一部の先輩の助け舟により、年末時代劇としての製作が決定した[1]。
それまで映像化されてきた作品同様、全体的にオーソドックスな忠臣蔵の内容になっているが、後編にそれまであまり目立った描かれ方をされなかった間喜兵衛と間新六の親子関係を描いたエピソードを挿入している。大石内蔵助も主君・浅野内匠頭への忠義を持ちながら、松の廊下での刃傷によりお家を断絶させた内匠頭に対して客観的な視点を持つ人物として描かれており、討ち入りも「幕府の御政道の過ちを正す」行為として位置付けられている。今作における吉良上野介も最初に浅野内匠頭を苛めながらも、最後の仇討ちの際には高家筆頭として、敦盛を舞いながら大石内蔵助に潔く討たれている(それまでの作品では大抵、吉良は往生際が悪く討たれていた)。
制作費は4億円とも言われた[1]。営業では賄いきれなかったため、局から番組制作特別強化金の適用を受け、日本テレビ系列全体が総力を挙げて制作されたとされている[1]。
あらすじ
- 前篇「君、怒りもて 往生を遂ぐ」
- 松の廊下における刃傷事件から、大石内蔵助が仇討ちを決意するまで。
- 後篇「我、一死もて 大義に生く」
- 仇討ちの準備から討ち入り、そしてその後の幕府の混乱を描く。
スタッフ
出演
四十七士
浅野家(赤穂藩)
赤穂藩士の家族・関係者
吉良家/上杉家(米沢藩)
幕府
その他
逸話
- 初回放送時(1985年:昭和60年12月30日・31日)バージョンと、翌年末の再放送時バージョン、株式会社バップより発売されたソフト(VHSおよびベータ、DVD)バージョンと、三つのバージョンが存在する。
- 初回放映時:【前編】山科の閑居からリクと幼い子供達・リクの母スズらが但馬へ去って行くのを見送った後、内蔵助が松之丞(主税)に切腹の作法を教える場面でエンドロールが流れる。【後編】冒頭、アヴァンタイトルで状況説明のナレーション、山科から但馬へ向かうリク・スズの一行が立ち止まって内蔵助の真意について語り合う場面があり、その後にオープニングタイトルクレジットが始まる。また、本編劇中の人物紹介テロップの出し方も後述の販売ソフト版とは異なっている(初放映時バージョンでは紹介テロップが出る人物がソフト版では出ていなかったりする)。現在CS等で放送されているのはこのバージョンである。
- 再放送時:【前編】ラストシーン、内蔵助らがリク・スズの一行を見送る場面に続いて、リクたちの会話(初回放映時の後編冒頭にあったシーン)が挿入されて、内蔵助が松之丞(主税)に切腹の作法を教える場面でエンドロールが流れる。【後編】冒頭にアヴァンタイトルがなく、いきなりタイトルクレジットが始まる。また、放送時間の関係からか、前後編ともに数シーンがカットされた短縮版になっている。
- 販売商品:構成は再放送時に同じく、リクとスズの会話が前編ラスト近くに挿入されており、後編にはアヴァンタイトルがない。ただし再放送時のようなカットシーンはなく、全長版で収録されている。また、前・後編共にチャプター毎に章分けされ、各章の副題が劇中に挿入されている(DVD版・2000年12月発売/2008年12月レンタル開始)。
- 再放送時と、販売・レンタル用ソフトの後編のオープニングロール・エンドロールには、上記の理由で本来登場していない筈のリク(中野良子)とスズ(山岡久乃)、及び八助(伊沢一郎/エンドロールのみ)の名前がクレジットされたままになっている。また、前編に引き続き後編にも登場している将軍綱吉(夏八木勲)のクレジットが後編エンドロールのみ欠落している(オープニングロールではクレジットされている)。
- 森繁久彌は、制作総指揮の岩淵康郎(森繁とも個人的に親しかった)から直々にオファーを受けた時に「ぜひとも(吉良役を)やらせて欲しい!」と逆にお願いしたという(その前に一度、岩淵に頼まれて森繁の元に赴いた里見浩太朗からオファーを受けていたが、「帰れ」と一蹴している)。役を引き受けるに当たり、森繁は「吉良はもっと堂々としているはずだ」として、愛される吉良を演じたいと考え、一歩も退かないつもりで脚本家の杉山義法らスタッフとも意見を交わしたという[2]。そして最期のシーンでも「着物はいい物じゃなければならない」として白羽二重を着て、畳を敷いた上で舞った(それまでの作品では大体、吉良は汚いような格好で蔵から引きずり出されるということが多かった)[2]。また「髭を生やした吉良なんて見た事ありませんよ」という周囲の反対を押し切って口髭をたくわえたまま吉良上野介を演じた。そして、吉良が刺されて死ぬ時の顔を一生懸命研究して収録に臨んだが、実際の本編映像では刺された瞬間にすぐに浪士達の引き揚げシーンへと切り替わる為、森繁苦心の「刺された吉良の表情」は観る事ができない[3]。その「刺された吉良の表情」は、収録現場に報道陣を入れた際にカメラに収められており、初回放映当時の番組宣伝スポットや日本テレビ系のワイドショー等では放映された。
- 当時かなり高視聴率だった『NHK紅白歌合戦』にぶつけた存在としては、当時の民放ではかなり高視聴率の15.3%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)[4]の視聴率をマークしたため、スポーツ紙に「忠臣蔵、討ち入り成功」「紅白討ち取ったり」「紅白が忠臣蔵にヒタイを斬られたゾ」などと書かれた[1]。また、『NHK紅白歌合戦』は前年に比べて平均視聴率が12ポイントも低下(66.0%)したことについて、当時のNHKの放送総局長が「(低下した視聴率が)そのまま忠臣蔵に流れた」と話している[1]。以後、『紅白』の裏の民放視聴率は漸次上がっていく。
- 当時の麹町本社屋の南本館玄関前の柱が本作の広告に大々的に使われた。ここがこのように広告に使われたのは、これが初めてだった[1]。
注釈
- ^ a b c d e f g 『テレビ夢50年 番組編4 1981〜1988』日本テレビ50年史編集室、2004年、6 - 7頁。
- ^ a b 『テレビ夢50年 番組編4 1981〜1988』日本テレビ50年史編集室、2004年、42頁。
- ^ 読売新聞(昭和60年 (1985) 12月30日)
- ^ 「紅白 レコード大賞 それとも? 大みそかの夜 何を見ますか」『読売新聞』1987年12月26日付東京夕刊、6頁。