『新書太閤記』(しんしょたいこうき)は、吉川英治の歴史小説。
概要
読売新聞に1939年1月1日から1945年8月23日まで『太閤記』の題で連載されたが、中断した。単行本は新潮社から『新書太閤記』の題で1941年から1945年にかけて9巻まで刊行された。その後、『続太閤記』の題で中京新聞他複数の地方紙に1949年に発表。『太閤記』『続太閤記』を合わせて一部書下ろしも含め、1950年から1951年にかけて六興出版部から全11巻で『新書太閤記』の題で刊行された。
豊臣秀吉の幼少時から、織田信長に仕え、ねねとの結婚、目覚ましい出世、本能寺の変を経て天下人になるまでの過程を描き、架空人物では幼少時に奉公した商家の若主人で日本人男性と中国人女性の両親を持つ於福などが登場する。徳川家康との対決が強まる小牧・長久手の戦いの時点で物語は終了し、突如終わった印象を与える(実際の秀吉の生涯はそれから約15年続く)。作者が晩年の秀吉の行状を嫌ったためとされるが、異説として日本の敗戦が影響したという見解がある。その根拠に、1945年8月23日掲載分をもって作品がいったん中絶していること、および中田耕治が指摘しているように「吉川英治も、戦争に協力した作家の一人と見られて、戦後はほとんど沈黙していた。」[1]ことが挙げられる。この点について葉室麟は次のように指摘している。「戦前生まれの作家って多かれ少なかれ「戦争協力」せざるを得なかった、これはある意味当然のことだと思います。吉川さんについて言えば『新書太閤記』で豊臣秀吉を書いているのですが、「小牧・長久手の戦い」が終わったあたりでフッと終わっていきます。何が起きたかというと、そこで日本が戦争に負けたんです。」[2]。実際に吉川は日中開戦後の1937年に東京日日新聞の従軍記者としていち早く中国に行き「迷彩列車」という戦争文学を発表して戦争に協力している。中島岳志は吉川がもともと戦争協力に積極的だったことを指摘しており[3]、呉座勇一は秀吉の「唐入り(朝鮮出兵)」を大日本帝国軍に先駆けた壮挙として描くという吉川の構想が大日本帝国の敗戦によって破綻したために筆を置かざるを得なくなったと指摘している[4]。
映像化作品
映画
テレビドラマ
1959年版
1959年に小説と同名のドラマが放送された。『源義経』(南郷京之助主演版)に続く「日本歴史シリーズ」の第2作。制作は毎日放送。主演は1953年版映画に主演した石井一雄。小野登の監督デビュー作。
関東地区は1959年5月8日から同年7月31日まで、NET(現:テレビ朝日)の毎週金曜19:30 - 20:00(JST)に放送。毎日放送側では金曜19:00 - 19:30(JST)で放送、放送期間は不明。
キャスト
スタッフ
1965年版
1973年版
1973年5月2日から1973年9月26日にかけて、NET(現:テレビ朝日)系列にて小説と同名のドラマが放送された。NETでは14年振りのドラマ化で、唯一の1時間作品となった。このドラマは東映東京撮影所の製作による。
当時の人気俳優・人気アイドルを抜擢して話題を呼んだが、同時期に同じ時代・舞台設定で大河ドラマ『国盗り物語』が放送されていた影響か、視聴率的には振るわなかった。番組タイトル(題字)を当時の内閣総理大臣でもあった田中角栄が書いている。
キャスト
スタッフ
出典・脚注
- ^ 中田耕治「異端作家のアラベスク」青弓社、1992年7月1日。143頁
- ^ “戦時の小説家が行っていた「戦争協力」とは?”. 新刊JP. 株式会社オトバンク (2015年10月11日). 2022年10月15日閲覧。
- ^ 中島岳志『親鸞と日本主義』新潮選書、2017年
- ^ 呉座勇一『戦国武将、虚像と実像』KADOKAWA〈角川新書〉、2022年
関連項目
- 鯱バス - 同社の観光バスには当作品の登場人物が車両の愛称として用いられている。
外部リンク
|
---|
小説 | | |
---|
戯曲 | |
---|
評論・随筆 | |
---|
短編 | |
---|
テレビ・ラジオドラマ | |
---|
映画 | |
---|
関連カテゴリ | |
---|