このブロツキーという人物は、ロシア系米国人で、映画会社を経営し、中国で撮影した紀行映画 A Trip Through China[8][9][10] をこの頃に米国で公開して大成功していたので、高く評価されて協力を要請されたとされている[11]。ブロツキーはハリウッドで撮影機材を調達して俳優などの人材も日本に連れてきた[12]。女優マーガレット・リサイト、俳優の栗原トーマスとウォーレス・ビアリー、撮影技師ロジャー・デイルなどである[13][14]。
撮影
1917年(大正6年)の夏から1918年(大正7年)にかけてブロツキー一行は日本政府提供の蒸気機関車で移動しながら京都や日光など日本中の観光名所で Beautiful Japan を撮影した[15][16]。
米国での配給に失敗
東洋フィルム会社とブロツキーは米国にサンライズ映画会社(Sunrise Film Manufacturing Company)を設立して米国での映画配給に乗り出し、1918年(大正7年)11月にブロツキーと栗原トーマスが渡米して Beautiful Japan と Sanji Goto を売り込んだが、Beautiful Japan の一部を短編にした A Trip Through Japan with the YWCA[17] が、YWCA で無料で上映されただけで、成果をあげることができなかった。それで、映画を編集し直して1919年(大正8年)11月にもう一度配給しようとしたが今度も失敗した。結局 Beautiful Japan は東京の帝国ホテルで披露されただけだった。期待に応えることができずに、1920年(大正9年)2月にブロツキーは日本を去った[18][19]。
進んだ西洋と遅れた東洋を対比しようとするブロツキーと日本の役人や東洋フィルム会社とは意見が合わなかったこと[20]、 A Trip Through China の撮影技師は優秀だったが Beautiful Japan の撮影技師はそうではなかったこと[21]、外国人観光客誘致・日本企業の宣伝・ブロツキーの関心などを反映した雑多な内容で長く退屈な映像になったこと、アメリカ人は米国製品の市場になりうる中国には関心を示したが、競合する工業国である日本には関心を示さなかったということが失敗の理由であるとされる[22]。