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森山 雄治(もりやま ゆうじ、1960年1月6日[2] - )は、日本の男性アニメーター、キャラクターデザイナー、アニメ演出家・監督。東京都出身。日本アニメーター・演出協会(JAniCA)会員。第4回日本アニメ大賞作画監督部門賞を受賞している。
経歴
関東第一高等学校[2]在学中から動画を手伝うようになり、高校卒業後は一般企業の入社試験を受けたが失敗し[2]、どうしようと思っていた時に見つけた新聞広告でスタッフを募集していたスタジオムサシへ[2]。東映動画のテレビアニメ『惑星ロボ ダンガードA』で初の動画。その後、スタジオコクピットへ移籍して『銀河鉄道999』を手がけた後、さらにネオメディアへ移る。ネオメディアでは日本サンライズの『無敵ロボ トライダーG7』、シンエイ動画の『ドラえもん』、ビジュアル80の『名犬ジョリィ』を担当。『無敵ロボ トライダーG7』で動画から原画へ昇格。その際、『トライダーG7』の作画監督チーフだった金山明博から原画の手解きを受ける。
1982年にネオメディアを退社して、『戦闘メカ ザブングル』、『魔境伝説アクロバンチ』から、フリーとして活動。そして、同年から参加した人気アニメ『うる星やつら』が出世作である。同作で作画監督や絵コンテデビューし、初めてオープニングアニメーションを担当するなど中心スタッフとして活躍。一躍人気アニメーターの仲間入りを果たした。『うる星やつら』のチーフディレクター押井守からはパートナーとして見込まれ、押井が原作、森山が作画で『アニメージュ』誌に1984年から『とどのつまり…』を連載し、漫画にも挑戦した。『うる星やつら』の終了後、後番組の『めぞん一刻』でキャラクターデザインに抜擢され、以後も数々の作品でキャラクターデザインを担当。1987年には第4回日本アニメ大賞の作画監督部門賞を受賞した。その後、アニメーターから演出業にシフトする。
フリーアニメーターが集まって作った「スタジオMIN」の創設メンバーの一人となる。MIN在籍時には、毛利和昭、北久保弘之といった繋がりから、『ドリームハンター麗夢』、『ブラックマジック M-66』といったOVAにノンクレジットで原画参加。MIN解散後はカオスプロジェクトやスタジオぴえろ作品、スタジオ雲雀作品を中心に数多くの作品に参加している。
ペンネーム
もとやまゆうじ、森山ゆうじ、もりやまゆうじ、西宝壌土、風間小太郎、砂川則博、MONTAN、芝跨野渡也、柴又十哉、阿藍隅史、猫部那智子、魚田尹夫など多数。
ペンネームの一つであるもとやまゆうじは参加した『魔法の天使クリィミーマミ』のテロップにて本来もりやまゆうじのはずが誤植されてしまったため、そのままペンネームにしたものである。現在は閉鎖している本人のサイトによれば、もとやまゆうじになってしまった真相は、制作進行が当時スタジオぴえろの社内で原画を描いていた本山浩司と森山雄治を混同してタイトルを発注してしまったため、との事。
阿藍隅史はアメリカ合衆国における映画作品で監督が途中降板した際などに使われていた偽名であるアラン・スミシーにちなむ。本人はこれに漢字を当てて使用していた。
評価
「タイミングの良さ・柔らかくてホットな絵柄・きっちりとしたレイアウトを総合的にこなす力があり、宮崎駿監督の様に映画の作り方にタッチできて、1シーンを預けた時に担当したシーンがフィルムになった時の責任を持てる人だと思う」(押井守)[3]
「意欲的であり、『自分が持って生まれたもの以外のものを意地でも出そう』と、自分をしんどい場所に追い込む」(山下将仁)[3]
「絵に派手さはないけど、説得力がある」(大塚伸治)[3]
参加作品
テレビアニメ
劇場アニメ
- 1978年
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- 1979年
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- 1981年
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- 1983年
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- 1984年
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- 1985年
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- 1986年
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- 1987年
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- 1988年
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- 1997年
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- 2001年
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- 2006年
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- 2007年
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- 2008年
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OVA
短編
ゲーム
漫画
その他
脚注
外部リンク