津軽氏(つがるし)は、武家・華族だった日本の氏族。16世紀末から廃藩置県まで、現在の青森県のうち津軽地方を支配した大名で、維新後には華族となり伯爵家に列する。通字は「信(のぶ)」。
出自
津軽氏の系譜には諸説あるが多くの系図では、甲斐源氏の流れをくむ南部氏の庶家・南部久慈氏の一族、大浦光信を祖とする津軽大浦家として家系を開始しており、延徳3年(1491年)、十三安藤氏残党の反抗に対処させるために久慈から津軽西浜種里に移封したと『可足記伝』、『津軽一統志』などで伝えられている。
大永6年(1526年)、大浦氏の初代光信が没し、嫡男盛信が跡を継ぎ、以後、3代は盛信の娘婿政信、4代は政信の子為則、永禄10年(1567年)に久慈氏から婿養子として入った為信が5代目としてが継承した[1]。
天正19年(1591年)、大浦(津軽)為信に対して、九戸一揆の鎮圧を命じた豊臣秀吉朱印状の宛名がそれまでの「南部右京亮」から「津軽右京亮」に切り替えられ、独立大名として公認された。[2]
「愛宕山教学院祐海書牒」によると為信は戦功に対する褒賞として藤原氏を名乗ることが許され、慶長5年(1600年)の津軽為信任右京大夫口宣案に「藤原為信」とあり、藤原姓の名乗りを朝廷から認可された。さらに、江戸時代に津軽信義は寛永18年(1641年)『寛永諸家系図伝』編纂の際に、近衛家に対して津軽家系図への認証を求め、近衛家当主近衛信尋から、大浦政信は近衛尚通の猶子であると認められ、系図上において近衛家は津軽家の宗家とされたが、政信の実父が不詳であることから、政信を始祖とする系図に書き換えられた[2]。
また、「津軽系図」によると、奥州藤原氏一門の秀栄は藤原基衡の次男で十三秀栄は御舘次郎と称し、保元2年(1157年)に、父基衡の遺命で、津軽六郡を領して津軽氏の祖になったと記されている。江戸時代を通じて津軽氏は弘前藩として存続する。
なお、2代信枚には徳川家康の姪で養女の満天姫が嫁ぎ、14代義孝の娘華子は昭和天皇の第2皇子正仁親王に嫁いでおり、徳川将軍家と皇室と縁続きである。分家で大名とされた家には黒石藩がある。
江戸時代初期に津軽氏が築城した種里城・堀越城・弘前城は「津軽氏城跡」として国の史跡に指定されている[4][5][6]。
津軽家文書
弘前藩主津軽家が相伝してきた文書群の一部で、明治以降、津軽家に相伝された分 3,500余点が国文学研究資料館に、国元の弘前におかれた文書群 13,000余点が弘前市立図書館にそれぞれ架蔵されている。
津軽屋形様先祖ヨリ之覚
津軽氏先祖は南部氏一族であると主張し、また、大浦南部氏の出羽国仙北金沢から陸奧国久慈郡、津軽鼻和郡大浦への移動が語られている。
津軽氏一族
津軽氏当主
弘前津軽家 : 陸奥弘前藩主(初代–12代)、伯爵(12代–14代)
黒石津軽家 : 黒石領主・旗本(初代–8代)、陸奥黒石藩主(8代–11代)、子爵(11代–13代)
系譜
支流
家臣団
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク