源 雅定(みなもと の まささだ)は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏、太政大臣・源雅実の次男。官位は正二位・右大臣、左近衛大将。中院右大臣と号す。久我家2代。
人物
- 素直でよく気が付き、堅苦しい所もなく魅力的な性格であった[1]。また、学才もあり、朝廷の儀式にも通じていたとされる[2]。
- 幼時より舞楽に長じ、康和3年(1101年)3月9日の白河院50歳の賀の試楽における童舞で、9歳にして『胡飲酒』を舞い、賞賛された[3]。父・雅実は雅定の舞の技能に自信を持っていたためか、嘉承元年(1106年)に開催された石清水臨時祭における一の舞に雅定が選ばれなかったことに腹を立て、途中で帰京してしまったとの逸話がある[4]。また、『胡飲酒』を伝える楽家の多資忠が1100年に山村政連(資忠の伯父の外孫)に殺害された際[5]、『胡飲酒』を伝受されていた雅実が資忠の子の忠方に伝えた逸話[6]があるが、雅実が死去してからは、忠方は雅定を師としていたとされる[7]。
- 豊原時元から伝授を受けた笙にも秀で、嘉応2年(1170年)までに開催された御遊において、各種記録に記された笙の演奏回数が2位の藤原宗忠を大きく引き離して最多となっている[8]。
- 歌人としては藤原顕輔・源俊頼らと交渉があり『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に入集している。
大鏡の増補を行った「皇后宮大夫」について
古くから『大鏡』の増補を行った「皇后宮大夫」を雅定に比定する説がありこれが通説とされているが、これは不明とされている同書の本編作者が増補作者の一族とされる推測から本編作者を村上源氏に求める論者から広い支持があるからであり、これに対して藤原一族に求める研究家からは同じ「皇后宮大夫」経験者である藤原家忠説などの異論も出されている。
官歴
しかし久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇崩御の際に後継を定める王者議定には出席している。
系譜
脚注
参考文献