紀 勝長(き の かつなが)は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿。初名は梶長あるいは楫長。大納言・紀船守の長男。官位は従三位・中納言。
経歴
延暦4年(785年)従五位下に叙爵し、翌延暦5年(786年)近江介に任ぜられる。同年8月の蝦夷攻めに際して東山道の兵器を調査している[1]。延暦10年(791年)従五位上。延暦11年(792年)4月に父・船守が没すると、9月に兵部大輔に任ぜられて京官に復す。その後、延暦12年(793年)正五位上、延暦13年(794年)従四位下と桓武朝中期から急速に昇進する。延暦14年(795年)には右中弁兼右衛門督(のち右兵衛督)と文武の要職を兼ね、延暦15年(796年)参議に任ぜられて公卿に列した。またこの頃、名を梶長(楫長)から勝長に改めている。
議政官として左兵衛督・造東大寺長官・右京大夫を兼ねる一方、延暦19年(800年)従四位上、延暦20年(801年)正四位下、延暦21年(802年)正四位上と引き続き順調に昇進を続け、延暦22年(803年)には従三位に叙せられている。
延暦25年(806年)平城天皇の即位に伴って4月に中納言に昇進するが、同年10月3日薨去。享年53。
人物
おおらかで、人をよく受け入れる性格であった。客人を好み、倦むことなくもてなしを行い、饗宴の費用について全く気にすることがなかった。歩射の作法に優れその道の師であった。犬・馬を非常に好み、欲するままに愛玩したいとの気持ちが抑えられないところがあったという[2]。
官歴
『六国史』による。
系譜
脚注
- ^ 『続日本紀』延暦5年8月8日条
- ^ 『日本後紀』大同元年10月3日条
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『公卿補任』
- ^ a b c d 「紀氏系図」『続群書類従』巻第168所収
参考文献