茨城県立大子清流高等学校(いばらきけんりつだいごせいりゅうこうとうがっこう)は、茨城県久慈郡大子町大子に位置する県立高等学校。大子第一高等学校と大子第二高等学校が統合して設立された。校名の「清流」は大子町の象徴的存在である久慈川と「清廉な人物、貴い恵み」という学校の教育目標を表す[1]。
設置学科・系列
統合前の学科
- 茨城県立大子第一高等学校
- 茨城県立大子第二高等学校
沿革
統合した学校
大子清流高等学校は、以下の2校を統合して発足した。
大子第一高等学校
茨城県立大子第一高等学校(いばらきけんりつだいごだいいちこうとうがっこう)は、茨城県久慈郡大子町にあった、公立の高等学校。校訓は「至誠・勤労・協和」[4]。1981年(昭和56年)時点では普通科・農業科・林業科・生活科を置き、生徒数は826人であった[4]。
校地(茨城県久慈郡大子町大子224)は大子清流高等学校に引き継がれた[2]。
一高の沿革
大子第二高等学校
茨城県立大子第二高等学校(いばらきけんりつだいごだいにこうとうがっこう)は、茨城県久慈郡大子町にあった、公立の高等学校。1981年(昭和56年)時点では普通科と家庭科を置く生徒数673人の高校だった[4]。校訓は「誠実・勤労・友愛」[4]。
校地(茨城県久慈郡大子町北田気662)は改修工事が行われ、2009年(平成21年)8月より東京理科大学大子研修センターとなった[9]。のちに、1年間貸与期間を延長の上で2020年1月に敷地を町に返却[10]。敷地は大子町営研修センターと新・大子町庁舎に活用された。
二高の沿革
- 1910年(明治43年)12月15日 - 私立大子女子技芸講習所として開校[7]。金町の野内せき宅2階を仮教場とし、初年度の生徒は10人だった[7]。
- 1912年(明治45年)
- 1月 - 本町の益子勝雄宅に教場を移転。
- 4月 - 大子町に移管、大子町立女子技芸補習学校に改称。大子尋常高等小学校に併設する。6月30日に開校式を挙行。
- 1918年(大正7年)8月17日 - 大子町立女子技芸学校に改称。茨城県で11番目の独立した女子校となる。9月26日に開校式を挙行。
- 1923年(大正12年)5月 - 法隆寺助教諭の転任に反発した生徒が同盟休校に入る。法隆寺助教諭は翌1924年(大正13年)12月に復帰。
- 1927年(昭和2年) - 組合立に移管、茨城県大子町外六ヶ村組合立大子女子技芸学校に改称。
- 1937年(昭和12年)12月24日 - 2階建の新校舎落成式を挙行。後山に移転。
- 1938年(昭和13年)度 - 花嫁修業として1週間の合宿訓練を行う「家庭寮」を実施。1942年(昭和17年)度まで継続する。
- 1943年(昭和18年)4月1日 - 茨城県大子高等女学校に昇格。
- 1945年(昭和20年) - 4年制に改組[11]。
- 1946年(昭和21年)
- 9月 - 旧校舎を移転改築して平屋建にする。
- 11月1日 - 大子町外九ヶ村組合立に移行。
- 12月24日 - 翌年に県立移管することが決定し、喜んだ人々が太鼓を打ち鳴らして行進する。
- 1947年(昭和22年)3月1日 - 茨城県に移管、茨城県立大子高等女学校に改称。
- 1948年(昭和23年)4月 - 茨城県立大子女子高等学校に改称。
- 1949年(昭和24年)4月 - 茨城県立大子第二高等学校に改称。普通科と家庭科を設置。
- 1952年(昭和27年) - 体育館竣工。
- 1960年(昭和35年) - 校舎を新築。
- 1977年(昭和52年)10月 - 1973年(昭和48年)から始まった校地造成と諸設備の建設が終わり北田気に移転、授業開始[12]。
- 2004年 - 新入生の募集を停止。
- 2006年(平成18年)3月31日 - 閉校[8]。
- 2008年(平成20年)6月 - 大子町が東京理科大学に校地を無償貸与[9]。
- 2009年(平成21年)8月 - 東京理科大学大子研修センターが開設[9]。
交通
茨城県道160号梨野沢大子線沿い。
著名な出身者
脚注
参考文献
- 茨城新聞社 編『茨城県大百科事典』茨城新聞社、1981年10月8日、1099pp.
- 大子町史編纂委員会 編『大子町史 通史編 下巻』大子町、平成5年3月31日、773pp.
関連項目
外部リンク