藤原 教長(ふじわら の のりなが)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家難波家・飛鳥井家始祖、大納言・藤原忠教の次男。官位は正三位・参議。
経歴
元永2年12月(1120年1月)に元服し、従五位下に叙爵。左少将・五位蔵人として崇徳天皇に近侍し、大治3年(1128年)に従四位下に叙せられる。 のち、右中将を経て、保延4年(1138年)に蔵人頭に任ぜられる。永治元年(1141年)10月、父・忠教の薨去に伴い官職を辞すが、12月には復任と共に参議に任ぜられ公卿に列した。
近衛朝でも累進して、久安5年(1149年)に正三位に至る。この間、議政官として右中将と丹波国・越前国・阿波国の国司を兼ねた。
保元元年(1156年)に勃発した保元の乱に際しては、崇徳上皇・藤原頼長側に加担。『保元物語』では源為義に対して再三の説得工作を行い自軍に参加させるといった中心的な役割を担ったと描かれる(真偽は不明)。上皇方の敗北後は出家・投降して恭順の意を示したが赦されず、常陸国信太の浮島(現在の茨城県稲敷市浮島)に配流された。
乱から6年後の応保2年(1162年)に都に召還され、高野山に入った。その後、安元年間(1175年 - 1177年)に鹿ケ谷の陰謀や安元の大火といった大事件が相次いだ際には、崇徳や頼長を神霊として祀り、その祟りを鎮めることを主張したという。
人物
真跡
官歴
※日付は旧暦
系譜
脚注
- ^ 『勅撰作者部類』
- ^ a b c d 『今鏡』藤波の中 第五 水茎
- ^ 「権右中弁朝隆朝臣能書之誉冠絶于当世」(『台記』天養2年閏10月25日条)
出典