許田 重発(きょだ じゅうはつ、1887年 - 1968年)は、那覇手中興の祖といわれる東恩納寛量の高弟の一人であり、東恩流の開祖。
経歴
1887年(明治20年)12月5日、父、許田重興と母、恩戸の四男として生まれた。幼名は小樽小(スターグヮー)といい、成人してからは小樽兄(スターチ)と呼ばれた。母は新参慎氏門中の東恩納寛榮の妹である。許田重発の姉は寛榮の息子、寛静に嫁いでいる。
許田は父の知人で慎氏の「西の東恩納」こと那覇手の大家・東恩納寛量に15歳の頃から唐手(現・空手)を師事した。また親戚である新参慎氏の「東の東恩納」こと東恩納寛裕にも師事した。
許田は師範学校を卒業後、教師の道を歩み泊や那覇の尋常小学校に勤務する傍ら唐手の修行を続けた。那覇尋常小学校の校長は東恩納寛裕の長男の寛文であり、同僚に船越義珍がいた。後に許田は沖縄県立第二中学校(現・那覇高等学校)の唐手部初代師範をつとめた。
1923年(大正12年)頃、許田は「空手研究倶楽部」で宮城長順、摩文仁賢和、本部朝基、呉賢貴などと共に研究し、東恩納寛量の型だけに拘らず、あらゆる空手の技と道を極めることに積極的に取組んだ。[1]
1934年(昭和9年)、大日本武徳会沖縄支部の唐手教師嘱託に任命された。
1939年(昭和14年)6月、大日本武徳会沖縄支部武徳殿開殿式において大日本武徳会長、林銑十郎(はやし せんじゅうろう)陸軍大将以下関係者を招いて行われた記念演武会で「スーパーリンペイ」の型を演武[1]。この演武の前には宮城長順が「轉掌」の型を演武している。
戦中、許田は大分県竹田市に疎開し[注釈 1]、戦後は、竹田でも近所の若者に指導しおり、福岡の上原優希徳(三郎)もサンチンの指導を受けに行っている。
1968年(昭和43年)8月31日別府市で死去。享年81。許田の弟子には、伊良波長幸、村上勝美、許田重光、大西栄三[注釈 2]神崎和也などがいる。
脚注
注釈
- ^ 許田は小学校(校長)を定年退職後、1944年に滋賀県の近江絹糸会社に徴用された沖縄の学徒動員生徒の指導教官として本土と沖縄を度々往復、戦争の激化に伴い家族とも大分県竹田市に疎開
- ^ 空手を学術と考えていた事から流派名を名乗らずに拳道学と名乗っている。
出典
参考文献
- 村上勝美『空手の心と技』新人物往来社 ISBN 4404017979
- 空手道と琉球古武道 村上勝美著
- 空手の心と技 村上勝美著
- 拳道学 大西栄三著
- 新参慎史家譜
- 萬水一源 東恩納寛文、寛惇共著
- 沖縄空手古武道事典 高宮城繁、新里勝彦、 仲本政博編纂 柏書房 ISBN978-4-7601-3369-7
関連項目