那須郡(なすぐん)は、栃木県(下野国)の郡。
人口36,826人、面積565.12km²、人口密度65.2人/km²。(2024年6月1日、推計人口)
以下の2町を含む。
上記の2町のほか、1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。
矢板市、さくら市の地域は後に塩谷郡に編入されている。その他にも塩谷郡との境界変更が行われている。
那須国造を務めていた飛鳥時代の豪族の那須韋提は那須国造碑によると永昌元年己丑(持統天皇3年、689年)4月に那須評(7世紀末~大宝律令制定以前の那須郡の称)の評督になったという。
8~10世紀の那須郡の郡衙跡は、那珂川町小川の梅曽にある那須官衙遺跡[1](なすかんがいせき[2])(北緯36度46分52秒 東経140度06分35秒 / 北緯36.78113347度 東経140.10971512度 / 36.78113347; 140.10971512 (那須官衙遺跡)[3])であると考えられている。
この遺跡は那珂川と箒川の合流地点の近くの、箒川の形成した段丘上に位置する。 昭和の初期より古瓦が散布することから寺院跡だと考えられ梅曽廃寺と呼ばれていたが、発掘により郡衙跡であることが分かった。1976年(昭和51年)に国の史跡に指定された。 郡衙は南北200m、東西400~600mほどの範囲にあり、その中を溝で西・中央・東さらに南東の4ブロックに分けている。西ブロックは幅4m、深さ1mの大溝によって囲われた1辺約200mの不正方形で、倉庫と考えられる総柱式の掘立建物が多数見つかっていることから倉院と考えられている。中央・東ブロックは宅地になっている。中央ブロックからは礎石立ちの倉庫と考えられる建物が2棟検出されている[4]。東ブロックは実務を行う場所(事務官衙)であったと推定される。またこれらの南方には館や厨家があったと思われるが、このうちの館に関連する施設は南東ブロックにあったと考えられる。 所有者(管理者)は那珂川町 他である[5]。
那須郡の郡寺は上記那須官衙遺跡の北方、那須郡那珂川町浄法寺下坪に位置する浄法寺廃寺(北緯36度47分12秒 東経140度06分33秒 / 北緯36.786750度 東経140.109111度 / 36.786750; 140.109111 (浄法寺廃寺)[6])であると考えられている。この遺跡は7世紀中葉ごろに創建された寺院の跡で、那須官衙遺跡と同じく箒川右岸の台地上に位置する。
『延喜式』神名帳に記される郡内の式内社。
この時代、郡内に本拠を置く領主達(交代寄合)は那須衆と総称されていた。
特記なき場合『那須郡誌』による[18]。
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*印は消滅。