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鄭 成功 (てい せいこう、チェン・チェンコン、拼音 :Zhèng Chénggōng、繁体字 : 鄭成功 ; 簡体字 : 郑成功 、1624年 8月27日 〈寛永 元年/大明天啓 4年〉7月14日 - 1662年 6月23日 〈大明永暦 16年〉5月8日 は、中国 明 代の軍人 、政治家 。肥前国 松浦郡 平戸島 で誕生。元の諱 は森。字 は明儼。日本名は田川福松。清 に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾 に渡り鄭氏政権 の祖となった。隆武帝 から明の国姓 である「朱」を称することを許されたため、国姓爺 (こくせんや。国性爺とも書かれる)とも呼ばれていた。台湾・中国では民族的英雄 として描かれており[1] 、清 と対抗しオランダ軍(東インド会社 )を討ち払ったことから、台湾では中華民国 の国父 である孫文 、初代中華民国総統 である蔣介石 と並び「三人の国神」の一人として尊敬されている[2] [3] 。
生涯
誕生
平戸市 千里ヶ浜にある「児誕石」
幼年鄭氏母子彫像(台湾:台南市・鄭成功祖廟)
中国福建省厦門 の岬・鼓浪嶼 に建つ鄭成功の巨大像 平戸市の川内にも同一の像があり線で結ぶと対等になる。
肥前国 松浦郡 の平戸 で、父・鄭芝龍 と日本人の母・田川マツ の間に生まれた。父・鄭芝龍は福建省泉州府 の人で、平戸老一官 と称し、平戸藩 主松浦隆信 の寵をうけて川内浦(現在の平戸市川内町字川内浦)に住んで、田川マツを娶り鄭成功が産まれた。たまたま、マツが千里ヶ浜に貝拾いにいき、俄に産気づき家に帰る暇もなく、浜の木陰の岩にもたれて鄭成功を出産したという逸話があり、この千里ヶ浜の南の端にはこの逸話にちなむ誕生石がある[4] 。
幼名を田川福松(ふくまつ)と言い、幼い頃は平戸で過ごすが、7歳のときに父の故郷福建 に移る。鄭一族は泉州府 の厦門 島、金門 島などを根拠地に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のために私兵を擁して武力を持っていた。15歳のとき、院考に合格し、泉州府 南安県 の生員 になった。以後、明の陪都・南京 で東林党 の銭謙益 に師事している。
幼かった弟の次郎左衛門は母と共に日本に留まり、田川家の嫡男となり田川七左衛門 と名付けられて日本人 として育った。長崎 で商売が成功した七左衛門は、鄭成功と手紙でやり取りを続け、資金や物質面で鄭成功を援助していた[5] 。
明の滅亡
1644年 、李自成 が北京 を陥落させて崇禎帝 が自縊すると、明 は滅んで順 が立った。すると都を逃れた旧明の皇族たちは各地で亡命政権 を作った。鄭芝龍らは唐王朱聿鍵 を擁立したが、この時元号 を隆武 と定めたので、朱聿鍵は隆武帝 と呼ばれる。一方、寄せ集めの順が精悍な清 の軍勢の入関によってあっけなく滅ぼされると、中原に満州民族の王朝が立つことは覆しがたい状況となり、隆武帝の政権は清の支配に対する抵抗運動にその存在意義を求めざるを得なくなった。
そんな中、鄭成功は父の紹介により隆武帝 の謁見を賜る。帝は眉目秀麗でいかにも頼もしげな成功のことを気入り、「朕に皇女がいれば娶わせるところだが残念でならない。その代わりに国姓 の『朱 』を賜ろう」と言う。それではいかにも畏れ多い と、鄭成功は決して朱姓を使おうとはせず、鄭姓を名乗ったが、以後人からは「国姓を賜った大身」という意味で「国姓爺 」(「爺」は「御大」や「旦那」の意)と呼ばれるようになる。
隆武帝の軍勢は北伐 を敢行したが大失敗に終わり、隆武帝は殺され、父鄭芝龍は抵抗運動に将来無しと見て清に降った。父が投降するのを鄭成功は泣いて止めたが、鄭芝龍は翻意することなく、父子は今生の別れを告げる。
抵抗運動の継続
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鄭成功軍の占領地と影響圏
その後、鄭成功は広西 にいた万暦帝 の孫である朱由榔が永暦帝 を名乗り、各地を転々としながら清と戦っていたのでこれを明の正統と奉じて、抵抗運動を続ける。そのためにまず厦門島を奇襲し、従兄弟達を殺す事で鄭一族の武力を完全に掌握した。
1658年 (明永暦 十二年、清順治 十五年)、鄭成功は北伐軍を興す。軍規は極めて厳しく、殺人 や強姦 はもちろん農耕牛を殺しただけでも死刑 となり、更に上官まで連座 するとされた。
意気揚々と進発した北伐軍だが途中で暴風雨に遭い、300隻の内100隻が沈没した。鄭成功は温州 で軍を再編成し、翌年の3月25日 に再度進軍を始めた。
北伐軍は南京 を目指し、途中の城を簡単に落としながら進むが、南京では大敗してしまった。
柿右衛門様式の発展 [独自研究? ]
1660年代から生産が始まった有田焼 の柿右衛門様式の磁器は、濁手(にごしで)と呼ばれる乳白色の生地に、上品な赤を主調とし、余白を生かした絵画的な文様を描いたもので、初代酒井田柿右衛門 が発明したものとされているが、この種の磁器は柿右衛門個人の作品ではなく、明 の海禁政策により景徳鎮の陶磁器を扱えなくなった鄭成功が有田に目を付け、景徳鎮の赤絵の技術を持ち込み有田の窯場で総力をあげて生産されたものであることが分かっている。
台湾占拠
鄭成功は勢力を立て直すために台湾を占領し拠点にしようと試みた。当時の台湾はオランダ東インド会社 が統治 していたが、鄭成功は1661年に澎湖諸島を占領した後に同3月30日からゼーランディア城 を攻撃(ゼーランディア城包囲戦 )、翌1662年2月21日にこれを落としてオランダ人を一掃し鄭氏政権 を樹立した。ゼーランディア城跡に安平城を築き王城とし、承天府及び天興、万年の二県を、澎湖島には安撫司を設置して国家体制を固めたが、熱病にかかり同6月23日に死去した。その後の抵抗運動は息子の鄭経 に引き継がれた。台湾台南市 には、1663年 に鄭経が鄭成功を祀った鄭成功祖廟 がある。
農業と貿易事業での成功
抵抗運動を進めるべく、鄭は台湾開発、特に農業 投資を進めた。例えば原住民に牛と農具を与え、農耕技術 を教える計画を立てて台湾原住民 の村を訪れた彼を歓迎しようと群衆が集まっていた原住民に、明のガウン と帽子 を与え、タバコ を贈ったという逸話がある[6] 。彼の開発独裁 は、国際的な貿易事業 にも反映された。鄭氏政権時代の台湾の貿易界は日本 と東南アジア 諸国間で運航を続け、貿易の中心地として利益を上げていた。民間貿易業者は、台湾海峡 を安全に通過するために政権当局に贈与、つまり貢税 を支払った。鄭氏政権はサトウキビ や鹿皮 などの特定商品を独占しており、割当貢納制度によって原住民から徴収され、日本では高値で取引された[7] 。
税金 のほぼ90%が商業活動に関連していたオランダ東インド会社 とは異なり、基本的な生存ニーズを満たすために米 やヤムイモ などの穀物の迅速な生産に重点が置かれていた。鄭の統治下での租税額 や徴税権は固定されており、商業的可能性の低下と増収収入の減少に繋がった一方、鄭氏政権下の台湾経済は利益主導のオランダ植民地 よりも大きな経済多角化 を達成し、より多くの種類の穀物 、野菜 、果物 、魚介類 を栽培した。1683年の鄭氏政権の終わりまでに、政府は台湾で年間4033kgの銀 収入を得、1655年のオランダ統治下の銀3145.9kgから30%以上増加した。砂糖の輸出は年間1,194,000kgに達した[8] 。
鄭成功の台湾攻略は東アジアにおける欧州人の植民地拡大の北限と転換点を象徴している。これにより、台湾はフィリピン、マレーシア、インドネシアなどと同様に数百年に渡って欧州人に支配されることはなくなった。
ゼーランディア城包囲戦後
ゼーランディア城包囲戦 後、鄭成功がオランダ東インド会社台湾総督フレデリック・コイエット との降伏合意に従って、武器と物資を鄭成功軍に引き渡しの引き換えにゼーランディア城に最後まで籠城していたた東インド会社に所属する約900人の傭兵、従業員、および民間人の引き上げを許した。その一方、数ヶ月にわたる抵抗に対する報復として、戦闘が続く中で鄭成功軍に捕虜された女性 や子供 を含む何百人のオランダ人 を解放しなかった。ゼーランディア城守備隊への見せしめとして、周辺の戦いで捕虜にされたオランダ人男性は処刑され、生き残ったオランダ人女性と子供はその後奴隷 にされた。オランダ人女性は鄭成功の指揮官達が自分たちの性的快楽のために徹底的に利用した後、最終的に中国の兵士に売られて彼らの妻となるよう強いられた[9] [10] [11] 。その後の出来事については、オランダの砦の日誌が一次資料となっている。「最高のものは指揮官の使用のために保存され、次に一般の兵士に売られた。未婚の男性の手に落ちた女性は幸せだった、嫉妬深い中国の女性による煩わしさから解放されたのだから」[11] 。鄭成功自身もオランダ人宣教師 のアントニウス・ハンブルク の10代の娘を妾にし解放することはなかった[12] [13] [14] 。1684年 になっても、これらのオランダ人 女性の何人かは中国人 に妻や性的奴隷 として捕らえられていた[15] 。金門島でオランダ人商人が連絡を取り、鄭成功の息子に囚人を解放する取り決めを提案したが、実現することはなかった[15] 。
現代
鄭成功は自身の目標だった「反清復明」を果たす事なく死去し、また台湾と関連していた時期も短かったが、台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたことから、台湾人 の不屈精神の支柱・象徴「開発始祖」「民族の英雄」と評価されている[16] 。中国 や台湾では英雄と見なされており、福建省 廈門市 の鼓浪嶼 では、鄭成功の巨大像が台湾の方を向いて立っているが、「中国で英雄視されている鄭成功が日本と中国のハーフ であり、その弟が日本人 として育ち日本で商売をしていたというのは、中国人 からすると複雑な感情なのかもしれない」という指摘がある[5] 。台湾城内に明延平郡王祠として祠られており、毎年4月29日復台記念式典が催されている。
中華民国海軍 の成功級フリゲート 一番艦には鄭成功の名を取り、「成功」と命名されている。
漢榮書局 (中国語版 ) 発行の香港 中学校歴史教科書 副読本『風華再現──中國歷代名人錄』は、「帝皇與近代領袖篇」「名臣篇」「名將篇」「文學家篇」「文化思想家篇」「藝術家篇」「科學家篇」「抗日英雄篇」のなかの「名將篇」において、26人の名将の1人として鄭成功を教えている[17] 。
人物
鄭成功は絶望的な戦況や強敵にも決して屈しない精神がある一方、不寛容で激しく冷酷な指揮官としても知られている。 彼は冷酷に行動し、必要があれば一族郎党も殺害か処刑する。軍法は厳格で容赦はない。部下の施琅 が罪を犯したことで鄭成功が施琅の家族全員を処刑したため、施琅が憤慨して清に降伏し、後に台湾侵攻の指揮官となった例は特に知られている。
鄭成功は、精神的に不安定で、気性が荒く、処刑 を命じる傾向があった。これは家族が清 軍に殺されたトラウマや、母親が(清軍に捕まるのを防ぐために)自殺 したと伝えられていることから説明できるかもしれないが、梅毒にかかったのではないかと推測され、彼を治療したオランダ人 医師クリスチャン・ベイヤーがその疑いを抱いていた[18] 。
ヴィットリオ・リッチは、鄭成功が怒りを顕示したのは、彼の武士 の訓練と日本人としての生い立ちのためだと指摘した[19] 。あるスペイン人宣教師は、彼の短気と報告されている暴力癖は日本からの遺伝によるものと私見を述べた[20] 。
Li Yengyue 博士によれば、鄭成功は精神疾患である「抑うつ性心神喪失」に苦しんでいた[21] [22] 。
王育徳 は、「鄭成功は日本人 の母親の影響のせいか、潔癖性で、そしてカンシャクもちであった。それが冷酷とまでいわれるほどの、きびしい軍律 となってあらわれた」と評している[23] 。
影響
江戸幕府 の儒官林鵞峰 と林鳳岡 の父子は『華夷変態 』において以下のように述べている[24] 。
崇禎帝は天に帰ってしまった。弘光帝は捕虜となり、唐以来の中華文明は南の隅にようやく命脈を保っているありさまで、満州の蛮族が中原に横行している。華は夷に態を変えようとしているのだ。はるか遠いところの話なので、その経緯は明らかではない。『勦闖小説』『中興偉略』『明季遺聞』なども概要を記すにとどまっている。明王朝を興した朱氏が天下を失ったのは我が国の正保年間のことだ。爾来三十年、福州や漳州の商船が長崎にやってきた時に話を聞き取っているが、そのうち江戸まで伝わり、公に伝わったものについては、その記録を読み取り、理解する上で、必ず我が一族が関わっている。その草案は反故の山に埋もれているため、失われてしまいそうなので、ここにその次第を述べ、書き留めて冊子となし、『華夷変態』と名付けることにする。聞くところによると鄭氏は各省に檄を飛ばし、復明を目指しているそうだ。その勝敗の行方は分からないが、もしも前途有為な夷が華に態を変じうれば、異域をほしいままにできるわけで、痛快なことだ。 — 華夷変態
1661年 に鄭成功が台湾を攻め、オランダ植民者を破ったのちに依拠した名目は「明招討大将軍」であり、その後23年間、鄭一族は台湾を統治していた間、海外にいる中華 の正統後継者であると自認していた[25] 。
「國姓爺」の刻印が入ったスペインドル(貿易銀 )[26] 。
明滅亡後、儒学者 が勤王 の挙にでることが続き、劉宗周 が福王 に仕え、黄道周 が唐王 に仕え、王夫之 および方以智 が永暦帝 に仕え、黄宗羲 および朱舜水 が魯王 に仕え、鄭一族は儒学者を後ろ盾として擁していたわけではないが、「国亡び、天下滅びるという二重の道徳的圧力の下、中国東南地区の士人はみな鄭氏政権にしたがって入台したであろうことは想像に難くない」[25] 。
鄭一族は明末に東アジア およびび東南アジア 海域に威勢を振るったが、その日本との血縁関係、貿易関係のために江戸文明 の影響を受けており、隠元隆琦 が日本に渡ったときは、鄭一族の水軍が護衛した。また、フィリピン におけるスペイン植民政府が鄭一族の兵力を恐れ、マニラ の漢人を弾圧するようになったことも、歴史の深層における構造的要素を見て取ることができる[25] 。
近松門左衛門 は、鄭成功をモデルに、「国性爺合戦 」を書き、浄瑠璃 さらに歌舞伎 として上演された[1] 。ただし、史実 とは違う面もある[1] 。
紀念
登場作品
浄瑠璃
小説
長谷川伸 『国姓爺』新版・徳間文庫、1989年
司馬遼太郎 『大盗禅師 』文藝春秋、1969年 のち文春文庫
陳舜臣 『旋風に告げよ』 講談社、1982年。改題『鄭成功 旋風に告げよ』中公文庫
荒俣宏 『海覇王』角川書店、1989年
伴野朗 『南海の風雲児・鄭成功』講談社、1991年 のち講談社文庫
高橋和島 『朱帆 鄭成功青雲録』海越出版社、1993年 のち小学館文庫
高橋和島『怒帆 鄭成功疾風録』海越出版社、1994年 のち小学館文庫
白石一郎 『怒濤のごとく』毎日新聞社、1998年 のち文春文庫
中嶌正英(原案田中芳樹 )『黄土の夢』講談社ノベルス 全3部
テレビ
『歴史を歩く 』(Jcomチャンネル/2023年3月)
映画
漫画
ゲーム
脚注
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関連項目
外部リンク
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