鈴木 輝彦(すずき てるひこ、1954年10月18日 - )は、将棋棋士。廣津久雄九段門下。棋士番号は136。静岡県袋井市出身。
棋歴
1970年、16歳のときに廣津の弟子となり、奨励会で指し始める。二段昇段(1973年5月)から三段昇段(1977年4月)までが長かった。ただし、三段昇段の事由となった12勝3敗の途中には、結核を患ったことによる約半年の休場がある[1]。
デビュー直後の第38期(1979年度)順位戦C級2組(当時の名称は「昇降級リーグ戦4組」)で8勝1敗で最終戦を迎え昇級争いに加わるが、敗れて8勝2敗となり次点(4位)で昇級を逃す。ところが翌年(第39期)では最後に2連敗して7勝3敗の成績でありながら、前期成績によるリーグ表上位が活きて2位となり、C級1組へ昇級[2]。その翌年の第40期(1981年度)C級1組では8勝2敗で2位となり、連続昇級でB級2組に上がる。
第48期(1989年度)順位戦B級2組で7勝3敗ながら2位となり、A級に一歩手前のB級1組へ昇級。段位は七段となった。翌年、第49期(1990年度)B級1組では、元棋聖の田中寅彦や当時王座獲得の途上にあった福崎文吾などから勝利を挙げるも、3勝8敗で陥落。なお、第50期(1991年度)順位戦では9回戦(1992年2月21日)で羽生善治前竜王と当たり、負けている。
第6期(1980年度)棋王戦で初代棋王の大内延介らに勝ち、本戦3回戦進出。
1981年度、第31回NHK杯戦の3回戦で中原誠棋聖に勝ち、4回戦に進出(ベスト8)。
第37期(1989年度)王座戦では、予選(1988年度)で大内延介や王将2期の中村修らに勝ち本戦進出。本戦では谷川浩司名人に勝ち2回戦進出。
第43期(1995年度)王座戦で中原誠永世十段を予選決勝で破り、さらに本戦ではタイトル5期の南芳一に勝って2回戦進出。しかし、その一方で第54期(1995年度)- 第55期(1996年度)の順位戦B級2組で2期連続の降級点を喫し、C級1組への陥落が決定。鈴木はC級1組で指さずに将棋の普及活動や文筆活動に力を入れたい[1]とし、フリークラス宣言をして順位戦から転出する道を選択。2004年、フリークラスの在籍期限よりも前に引退届を提出し引退[3]。
2017年5月29日、日本将棋連盟理事(非常勤)に就任[4]。
棋風
居飛車党で、矢倉、相掛かり、角換わり、対振り飛車急戦を指す。ただし、自陣の整備を完了する前に仕掛けることが度々あり、その場合は力戦調の将棋となる。
一方で矢倉中飛車の使い手としても知られ、本人も『将棋世界』誌上の連載で「『矢倉中飛車』の講座とくれば、現棋界で私しかいない、と胸を張って言う事ができる」と述べるほど。本人によれば奨励会時代からずっと指し続けているが、一時は戦績が低迷したため、将棋を知らないはずの妻から「矢倉チュウ飛車だけは止めて」と言われたこともあるという[5]。
人物・エピソード
- 文筆活動は、将棋棋士業ともに鈴木の天職。将棋関係誌には、筆者「鈴木輝彦」の名が頻繁に見られる。本人によると、前述の二段時代の入院時に毎日読書ばかりしていたのが、文筆活動のベースになっているとのこと[1]。
- 1997年、将棋世界に連載した「棋士それぞれの地平」により、将棋ペンクラブ大賞・一般部門:佳作。
- マジックのプロフェッショナル(SAM)である[1]。
- 1999年から日本将棋連盟が会員制通信対局、プロ棋士の指導対局、将棋関連のデジタルデータのメンテナンスおよび管理を行う会社、日本将棋ネットワーク株式会社(略称「NSN」)の代表取締役社長を務める。
- 谷川治恵がNHK杯テレビ将棋トーナメントの司会・聞き手を務めていた頃、鈴木が解説役として出演した際、谷川浩司についての話をしている最中に冗談で「弱い方の谷川さんは元気ですかね」と面と向かって言い、彼女を閉口させた。
- あだなは「ミジンコ」[6]。
昇段履歴
- 1970年 6級 = 奨励会入会
- 1972年 初段
- 1978年12月14日 四段 = プロ入り
- 1981年4月1日 五段(順位戦C級1組昇級)
- 1982年4月1日 六段(順位戦B級2組昇級)
- 1990年4月1日 七段(順位戦B級1組昇級)
- 2004年3月31日 引退
- 2010年4月1日 八段(引退棋士規定)[7]
主な成績
在籍クラス
棋戦
表彰等
- 1999年 - 通算300勝達成(1999年7月28日)[10]
- 2003年 - 現役勤続25年表彰
著書
脚注
関連項目
外部リンク