3枚目のアルバム『THE SEASON IN THE SUN』(1986年)のLP盤は、オリコンアルバムチャートにおいて最高位第3位の登場週数21回で売り上げ枚数は24.9万枚[2]と大ヒットし、TUBEにとって出世作となった[3]。同作のリリースと前後する形で、TUBEは初のコンサートツアー「夏まで待てない Sea-Side Vibration'86」を同年5月8日の稚内総合文化センター公演から8月18日の鹿児島市民文化ホール公演まで29都市全29公演を実施[4]。当時はTUBEの認知度も低く、ロックバンドのコンサートを観覧するのが初めてという聴衆が多く存在した[5]。また、公演会場は公民館のような場所が多く、さらに客層は子供から老人まで幅広かったために公演中に子供が席を立って走り回ることや音の大きさに驚いた老人が途中で帰ってしまうなど様々なトラブルが発生[5]。初日から12か所目まではすべて北海道での公演となっていたが、道内のラジオ局でのベストテン番組において「シーズン・イン・ザ・サン」がランクインするなど活動が実を結ぶ結果となった[5]。
その後同年秋にリリース予定となっていたシングルのレコーディングが決定し、2枚目のシングル「センチメンタルに首ったけ」(1985年)の売り上げ不振のこともあってメンバーはスタッフとともに楽曲の選定を念入りに行っていた[8]。「シーズン・イン・ザ・サン」のヒットと野外ライブの盛り上がりをどう持続させていくか、そしてさらに上を目指していくために試行錯誤を重ねた結果、アマチュア時代から前田亘輝のバラード歌唱に定評があったことから4枚目のシングルは「BECAUSE I LOVE YOU」に決定された[8]。同曲はオリコンシングルチャートにおいて最高位第13位の登場週数12回で売り上げ枚数は9.1万枚となり[9]、「シーズン・イン・ザ・サン」を超える結果は出せなかった[8]。
録音、制作
シングルとしては初のバラードとなった「BECAUSE I LOVE YOU」は、明るい楽曲ばかりをリリースしていたTUBEの「しっとりした一面」を表現する目的でリリースされたが、結果として「シーズン・イン・ザ・サン」の売り上げを超えることは出来なかった[8]。この事により「TUBE=夏」というイメージがほぼ固定化された状態になり、それまで2枚目のシングル「センチメンタルに首ったけ」の売り上げが伸びなかったのは「タイミングが悪かっただけ」と考えていたメンバーも再考を促される形となった[8]。メンバー自身は季節を問わず全力でレコーディングに取り組んでいたにも拘わらず、夏以外の季節で成功しないことに苦慮するようになっていた[8]。単に季節だけの問題ではないとメンバーは感じてはいたものの、夏限定で活動することには納得できない状態であった[8]。TUBEには「シーズン・イン・ザ・サン」のような16ビートの曲だけでなく、「BECAUSE I LOVE YOU」のようなバラードも持ち味であることを外部に示すつもりであったが、売り上げ不振により前年以上にメンバーは悩み、出口のない迷路にはまり込む状態となった[8]。
歌詞に関しては、「Shine On」および「Dear My Friend」などラブソングの枠から外れるような楽曲も収録されており、同書では「人間賛歌(ライフソング)というジャンルを確立しようとする意気込みや試行がひしひし感じられる」と記している[12]。「Dear My Friend」および「SURFIN' ROAD」は作詞および作曲、編曲がTUBE名義となっており、前作収録曲であった「Right On!」および「サザン・パシフィック」が編曲のみTUBE名義であったことに対して、楽曲制作に関してさらに一歩踏み込んだ姿勢が感じられると同書では指摘している[12]。最終曲である「Last Page」では、過去3作には見られなかった前田による「語り口調のような抑えた表現」のボーカルが収録されているが、これらを踏まえて同書では「TUBEの試行とは挑戦者魂なのだ」と総括している[12]。
本作を受けたコンサートツアーは「TUBE LIVE AROUND CHIKOKU-GENKIN」と題して、本作リリース前の1986年11月14日の浦安市文化会館公演を皮切りに、1987年2月9日の東京厚生年金会館公演まで34都市全35公演が行われた[4]。ツアー前の話し合いでメンバーは「来てくれた人達が楽しんでくれるようなライブにしよう」と意気込みを述べており、レコーディングと違いライブではマニアックな展開も可能であり、メンバー自身が好むアレンジに変更することは簡単であったもののそれだけは絶対にしないことを決定していた[11]。それはアルバムを購入した人々がライブを見て楽しんで帰ってもらうことが次に繋がっていくことであり、シングルヒットがなくともライブを楽しむファンが増えることによって後に結果を出せるとメンバーが判断したためであった[11]。