初代ランファーリー伯爵 トマス・ノックス (英語 : Thomas Knox, 1st Earl of Ranfurly 、1754年 8月5日 – 1840年 4月26日 )は、アイルランド王国 出身の貴族、政治家。1776年から1797年までアイルランド庶民院 議員を、1806年から1812年まで連合王国庶民院 議員を務めた[ 1] 。
生涯
初代ノースランド子爵トマス・ノックス と妻アン(Anne 、1803年10月14日没、旧姓ヴィジー(Vesey )、初代ナップトン男爵ジョン・デニー・ヴィジー の娘[ 2] )の息子として、1754年8月5日にダブリン で生まれた[ 3] 。1770年11月10日、オックスフォード大学 クライスト・チャーチ に入学した[ 4] 。
1776年から1783年までカーリングフォード選挙区 (英語版 ) の、1783年から1790年までダンガノン選挙区 (英語版 ) の、1790年から1797年までティロン選挙区 (英語版 ) の代表としてアイルランド庶民院 議員を務めた[ 1] 。議会では政府を支持し、1779年にティロン県長官 (英語版 ) を務めたほか[ 5] 、1794年に閑職(アイルランド人民間訴訟裁判所 (英語版 ) の書記官 (英語版 ) の1人。年収1万ポンドの官職[ 5] )に任命された[ 6] 。また、1780年代に議会改革に反対し、1778年と1793年にカトリック解放 に賛成したが、1795年には反対した[ 5] 。カーリングフォード選挙区の議席は金で買った議席であり、ダンガノン選挙区の議席はノックス家の影響力により、ティロン選挙区の議席は父の友人にあたる初代アバコーン侯爵ジョン・ハミルトン の影響力により得た議席だったが、1793年に就任したティロン民兵隊の中佐という軍職に1794年に早くも辞任したことでアバコーン侯爵の怒りを買い、以降1806年まで議員に当選できなかった[ 6] 。1796年7月12日にユナイテッド・アイリッシュメン (英語版 ) に反対するダンガノン協会(Dungannon Association )を設立し、9月にはアイルランドのヨーマンリー (英語版 ) 設立にこぎつけた[ 5] 。
アイルランド王国 とグレートブリテン王国 が1801年に合同した後、1802年2月に連合王国議会 のティロン選挙区 (英語版 ) で空席が生じると、ノックスは立候補を望み、アバコーン侯爵や第2代ベルモア伯爵サマセット・ロリー=コリー (英語版 ) に支持を求めたが失敗、結局立候補を取りやめた[ 7] 。
しかし、1806年イギリス総選挙 の時期になると、状況は変わった[ 7] 。アバコーン侯爵の影響力の基盤になっていた借地契約が1805年に終わり、その再契約に時間がかかったため、アバコーン侯爵は一時的に影響力を失ったのである[ 7] 。ノックスはベルモア伯爵を盟友に引き入れた上、ベルモアの仲介で1806年6月に首相の初代グレンヴィル男爵ウィリアム・グレンヴィル に会い、グレンヴィル男爵への支持を約束した(アバコーン侯爵はグレンヴィル政権に対し野党の立場にあった[ 7] )。これにより現職議員の初代準男爵サー・ジョン・ステュアート (英語版 ) は選挙戦に挑まず、ノックスは無投票で当選した[ 7] 。次の総選挙 が1807年と早すぎたため、アバコーン侯爵はまだ影響力を取り戻せず、またしてもノックスの無投票当選を許した[ 7] 。議会ではグレンヴィル派として投票したが、カトリック解放問題だけは有権者からの指示により反対票を投じざるを得なかったという[ 6] 。
次の総選挙を控えた1811年5月、長男トマス (英語版 ) を立候補させることを決めると、8月にグレンヴィル男爵に手紙を書き、イングランドの選挙区での議席を求めたが、かなわなかった[ 6] 。その後、1812年4月にカトリック解放に賛成票を投じ(連合王国議会におけるティロン選挙区の代表としては初[ 7] )、1812年イギリス総選挙 で議員を退任した[ 6] 。
1814年にアイルランド人民間訴訟裁判所書記官の官職を失い、その代償として3,678ポンドの年金を与えられた[ 6] 。1818年11月5日に父が死去すると、ノースランド子爵 位を継承した[ 3] 。1823年、メイフェア のアッパー・グローヴナー・ストリート (英語版 ) からフランスに引っ越した[ 5] 。
1826年7月6日、連合王国貴族 であるレンフルーシャー におけるラムフォーリーのランファーリー男爵 に叙された[ 3] [ 8] 。1831年戴冠式記念叙勲 (英語版 ) では1831年9月14日にアイルランド貴族 であるランファーリー伯爵 に叙された[ 3] [ 9] 。貴族院 では1829年ローマ・カトリック信徒救済法 と1832年改革法 (第一次選挙法改正)に賛成票を投じた[ 5] 。
1840年4月26日にパリ のヴァンドーム広場 にある自宅で死去、5月18日にダンガノン で埋葬された[ 5] 。息子トマス (英語版 ) が爵位を継承した[ 3] 。
家族
1785年6月2日、ダイアナ・ジェーン・ペリー(Diana Jane Pery 、1764年10月20日 – 1839年11月24日、初代ペリー子爵エドマンド・ペリー の娘)と結婚、5男1女をもうけた[ 10] 。
トマス (英語版 ) (1786年4月19日 – 1858年3月21日) - 第2代ランファーリー伯爵
エドモンド・セックストン・ペリー(Edmond Sexton Pery 、1787年7月21日 – 1867年3月24日) - 1813年7月3日、ジェーン・ホープ=ヴィアー(Jane Hope-Vere 、1875年6月11日没、ウィリアム・ホープ=ヴィアーの娘)と結婚、子供あり
ジョン・ヘンリー (英語版 ) (1788年7月26日 – 1872年8月27日) - 1822年2月12日、マベラ・ジョセフィーン・ニーダム(Mabella Josephine Needham 、1801年ごろ – 1899年11月16日、初代キルモリー伯爵フランシス・ニーダム の娘)と結婚、子供あり。第7代ランファーリー伯爵ジェラルド・ノックス の高祖父
ジョン・ジェームズ (英語版 ) (1790年4月3日 – 1856年7月9日) - 1824年9月25日、メアリー・ルイーザ・テイラー(Mary Louisa Taylor 、1868年10月20日没、エドワード・テイラーの娘)と結婚、子供あり[ 11]
ウィリアム・ブラウンロー(William Brownlow 、1794年1月 – 1794年3月13日[ 12] )
フランシス(Frances 、1861年12月26日没)
出典
^ a b "Biographies of Members of the Irish Parliament 1692-1800" . Ulster Historical Foundation (英語). 2020年12月30日閲覧 。
^ "Northland, Viscount (I, 1791)" . Cracroft's Peerage (英語). 17 July 2007. 2020年12月30日閲覧 。
^ a b c d e Cokayne, George Edward , ed. (1895). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (N to R) (英語). Vol. 6 (1st ed.). London: George Bell & Sons. p. 327.
^ Foster, Joseph , ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (E to K) (英語). Vol. 2. Oxford: University of Oxford. p. 806.
^ a b c d e f g Quinn, James (2009). "Knox, Thomas". In McGuire, James; Quinn, James (eds.). Dictionary of Irish Biography (英語). United Kingdom: Cambridge University Press. doi :10.3318/dib.004612.v1 。
^ a b c d e f Jupp, P. J. (1986). "KNOX, Hon. Thomas (1754-1840), of Dungannon Park, co. Tyrone." . In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年12月30日閲覧 。
^ a b c d e f g Jupp, P. J. (1986). "Co. Tyrone" . In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年12月30日閲覧 。
^ "No. 18259" . The London Gazette (英語). 17 June 1826. p. 1478.
^ "No. 18846" . The London Gazette (英語). 9 September 1831. p. 1834.
^ "Ranfurly, Earl of (I, 1831)" . Cracroft's Peerage (英語). 30 June 2019. 2020年12月30日閲覧 。
^ Farrell, Stephen (2009). "KNOX, Hon. John James (1790-1856)." . In Fisher, David (ed.). The House of Commons 1820-1832 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年12月30日閲覧 。
^ Lodge, Edmund , ed. (1846). The Peerage of the British Empire as at Present Existing (英語) (15th ed.). London: Saunders and Otley. p. 438.
外部リンク