フィリップ・ボイト(Philip Kimely Boit、1971年12月12日 - )は、ケニアのクロスカントリースキー選手である。アフリカ大陸出身者として初めて冬季オリンピック(クロスカントリースキー)に出場したことで知られ、1998年長野オリンピックから2006年トリノオリンピックまで3大会連続で出場を果たしている[1][2][3]。1972年ミュンヘンオリンピックで陸上男子800メートル走の銅メダルを獲得したマイク・ボイトは彼の従兄にあたる[注釈 1][1]。
経歴
長野オリンピックを目指して
フィリップ・ボイトは大地溝帯近くのリフトバレー州エルドレットの農家の生まれで、もともとは陸上中距離走の選手であった[2]。生地には雪が降らず、スキーの経験もなかった[2][3]。
ボイトはスポーツウエアブランドナイキからのオファーに応じて、ヘンリー・ビトックという中距離走選手とともに1998年長野オリンピックへの出場を目指すことになった[2][6]。当初はケニア国内でローラースキーのトレーニングを重ね、さらに1996年2月、フィンランドに移動してトレーニングを行った[2]。
熱帯生まれのボイトにとって、フィンランドでの日々は驚きの連続であった[2]。初めて見た雪だけではなく、スキー板を履いたことさえない彼は雪上でのトレーニングにも驚いたという[2]。
ケニアは1998年長野オリンピックの出場枠を1つ獲得し、国内の代表選考を経てボイトがクロスカントリースキー競技で代表となった[2]。彼は唯一のケニア代表選手として、長野オリンピック開会式では旗手も務めている[2]。
1998年長野オリンピックのクロスカントリースキー競技では、10kmクラシカル(1998年2月12日)のみに出場した[7]。エントリー98人のうち完走は92人で、ボイトは最下位(47分25秒5)で優勝者のビョルン・ダーリ(ノルウェー)の記録(27分24秒5)から約20分遅れで完走した[2][3][7]。ダーリはボイトをフィニッシュラインで待ち受け、ゴールした彼を抱きかかえて「素晴らしい、君こそ真の勇者だ」と称賛した[2][8]。ダーリは「彼を励ましてあげたかった。あの厳しい状況でも、彼は決して諦めなかった」と、当時を回想した[2]。ボイトはダーリについて「僕のコーチがよく(ダーリのことを)話題にしていましたし、僕も彼のことをよくテレビで見ていました。でも、優勝した彼が、僕のことを待っていたなんて、信じられなかったです」と述べていた[2]。
日本の観衆も、ボイトの健闘を讃えた[2]。ボイトも「あの場にいた日本の人たちが、『ケニア、ゴー! 』とか『フィリップ、がんばって! 』って叫んでくれていた。最後にゴールをしたのに、まるでメダルが決まったかのような声援だったよ」と振り返っていた[2]。
長野オリンピックから数週間後、ボイトは男児の父となった[2][3]。その子にボイトは「ダーリ」と命名している[2][3]。
長野オリンピック後
ボイトは2002年ソルトレークシティオリンピックと2006年トリノオリンピックにも、ケニア代表として出場を果たした[1][2]。ソルトレークシティではスプリント競技(1.5㎞)と20キロメートル複合の2競技に出場し、前者では前半の10キロメートルクラシカルで敗退したものの完走70人(エントリー72人)のうち65位、後者では前半クラシカル(10キロメートル)で完走80人(エントリー83人)のうち77位とスキー技術の向上を見せた[2][9][10]
トリノでは15キロメートルクラシカルのみに出場した[1][11]。このときは完走96人(エントリー99人)のうち53分32秒4の記録で91位となり、最下位の選手(1時間7分15秒9)を10分以上引き離していた[11]。
ボイトは病気のため2010年バンクーバーオリンピック出場を断念した[2]。最後の国際大会となったのは2011年にオスロ(ノルウェー)で行なわれた世界選手権で、彼はダーリの応援を受けながら完走し、クロスカントリー・スキーヤーとしてのキャリアを終えた[2]。
2021年、ボイトの息子ダーリは自分の名の由来となった父の親友ビョルン・ダーリと初めて対面した[2]。2人は一緒にトレーニングをしながら、チャリティー・イベントなどの参加を通じて楽しい時間を過ごしたという[2]。
脚注
注釈
- ^ マイク・ボイトの記事では「甥」とされているが、ここではSports Reference LLCおよびOlympediaの記述を採用した[1][4][5]。
出典
関連項目
外部リンク