フュッセン (ドイツ語 : Füssen , ドイツ語発音: [ˈfʏsn̩] [ 2] )は、ドイツ連邦共和国 南東部のバイエルン州 シュヴァーベン行政管区 のオストアルゴイ郡 に属す市である。バイエルン州の最南西部に位置し、ロマンティック街道 とヴィア・クラウディア・アウグスタ に面している。
地理
フュッセンはアルゴイ地方 に位置する。市内をレヒ川 が流れている。このドナウ川 支流はチロル州 との国境である市の南境界付近のレヒ渓谷を下り、市域を通って市の北東部に位置するフォルゲン湖に至る。フォルゲン湖は洪水の防止を目的とした人造の湖で、春の融雪水の集水池となっている。十月の中ごろを過ぎると、翌春の融雪に備えてこの湖は排水される。この他、市内にはホプフェン湖 、ヴァイセン湖 、アルタート湖、エッシャッヒャー池やヴィーデマン池がある。アルタート湖でレヒ川に合流するファウレンバッハ川沿いにはオーバーゼー(上の湖)とミッテルゼー(中の湖)がある。海抜808mに位置するフュッセンは、バイエルン州で最も高い都市である。
フュッセンの町並み
市の構成
本市は、公式には38の地区 (Ort) からなる[ 3] 。
バート・ファウレンバッハ
ベーベル
ベンケン
エンツェンスベルク
エルケンボリンゲン
エシャッハ
フィッシャービヒル
フュッセン
ホプフェン
モース
オーバーキルヒ
ロスモース
シュヴァルツェンバッハ
ゼー
シュタイクミューレ
フォルダーエック
ヴァイセンゼー
ヴィートマー
歴史
ローマ時代のフュッセンは、「Via Claudia Augusta 」というローマ街道 の経路上にある入植地であった。このローマ街道を南へ進むとイタリア 北部に通じ、北へ進むとローマ帝国 のラエティア 属州の中心都市へと通じていた。その中心都市はアウグスタ・ヴィンテリコールムと言い、これは現在のアウクスブルク に当たる。古代末期には、アルプスを越える重要な交易路を警備するため、ローマ軍団 の一つである第3軍団イタリカ の部隊がフュッセンに駐屯した。フュッセンを発掘した結果、5世紀のローマ人の城郭基礎が出土した。おそらく260年にはすでにここにローマの軍事施設があったと推測されている。フュッセンの、当時の「Foetibus」または「Foetes」という名前は、ラテン語で「渓谷」を意味する「Fauces」またはゲルマン語で「麓、足」を意味する fot に由来する。その後集落名は Fozen(1147年)、Fozin(1188年)、Fuozzen(1206年)、Füzzen(1366年)と変遷した後、現在の Füssen(1424年 以降)となった。
現在の聖マング修道院教会
フュッセンがその守護聖人 として崇める聖マング(フュッセンのマグヌス )は、748年 にこの集落に庵を設けた。その後修道士が流入し、8世紀 にはベネディクト会 の聖マング修道院が創設された。聖マングの最初の埋葬地は、彼が建てた小さな教会であった。その後、彼の遺骨は850年 に建てられた教会の地下室に移されたが、1100年頃にその遺骨は紛失した。今日では、聖マング修道院教会の地下室の埋葬地を見る事が出来る。聖マングの唯一の遺骨は聖遺物 とされ、大祭壇の上のガラスの十字架の中に納められている。同じ十字架の中には彼の杖、胸の十字架、聖杯 も納められている。
同じ8世紀頃に、フランク王国 の王領が設けられた。代官権は初めヴェルフェン家 に属したが、1191年 にヴェルフェン家の世襲財産としてシュタウフェン家 が購入した。1268年 にコッラディーノ がナポリ で処刑された後、シュヴァーベン公 領は帝国に返還された。
その間にレヒ川沿いの入植地は発展を遂げた。13世紀 には当時のアルゴイ地方では最大の規模の都市となっていた。都市権の授与がいつであったかは定かではないが、フュッセンを「都市」と表記している1295年 の史料が遺されている。
1313年 に皇帝 ハインリヒ7世 は、400マルク銀貨の借金のために、この街と周辺地域をアウクスブルク司教 に質入れした。この借金は返済されなかった。皇帝の後継者達は1314年 (フリードリヒ美王 )、1322年 (ルートヴィヒ・フォン・バイエルン )によって、その所有を認められた。カール4世 によってアウクスブルク司教に裁判権が移譲されたことで、フュッセン帝国代官管理区は最終的に司教領となった。
1656年のフュッセン図
1486年 から1505年 にかけてアウクスブルク司教領主は中世都市の上にホーエ・シュロス(高い城館)を建造した。当時の後期ゴシック様式 の城館は、その後は聖界領主の夏の離宮として用いられた。アルゴイ地方では大きな城で、ゴシック建築 の城郭建築として大変良く保存されている。フュッセンのランドマーク となっているこの城館は、バイエルン州の絵画コレクションの展示支所となっており、ゴシック様式 後期およびルネサンス 期の美術品を中心に展示している。カトリックの都市であったフュッセンは、シュマルカルデン戦争 の際にはプロテスタントの傭兵 隊長ゼバスティアン・シェルトリン率いる高地ドイツ都市軍によって、1546年 7月10日に占領された。現在の修道院教会は1701年 から1726年 に建設された。
1745年 4月22日にこの街は、一時的に国際的重要性を獲得した。フュッセン条約 でバイエルン選帝侯 マクシミリアン3世ヨーゼフ はオーストリア に対する相続請求権を放棄し、バイエルンにおける政治権力確立に専念することとなった。バイエルンは、父親の皇帝カール・アルブレヒト が引き起こしたオーストリア継承戦争 から離脱した。1782年 5月6日、ウィーン からローマ へ戻る途中アウクスブルク から到着した教皇 ピウス6世 はホーエ・シュロスに宿泊した。
1803年 の帝国代表者会議主要決議 に基づく世俗化の結果、バイエルン選帝侯領の一部となった。例外は、一つはフランチェスコ会 修道院で、1803年にドイツ騎士団 領となり、1805年 になってバイエルン選帝侯領に移された。もう一つは聖マング修道院で、エッティンゲン=ヴァラーシュタイン侯 の城館となり、1806年 になって初めてバイエルン領となったのである。
フュッセンは、この地を拠点にしたリュート 製作者やヴァイオリン 製作者といった特殊な手工業者によって有名となった。フュッセンはヨーロッパ における職業的ヴァイオリン製作の揺籃の地となったのである。1562年 にはヨーロッパで初のヴァイオリン製作者のツンフト が設立された。
第二次世界大戦 中は、ダッハウ強制収容所 の支所がフュッセンに置かれた。
市域の拡大
バート・ファウレンバッハは1921年にフュッセン市に合併した。1978年の市町村再編に伴いホプフェン・アム・ゼーおよびヴァイセンゼーがこの街に合併した。
行政
市長
2020年からマクシミリアン・アイヒシュテッター (CSU )が市長を務めている[ 4] 。
市議会
フュッセン市議会は24議席からなる。
姉妹都市
文化と見所
博物館
州立ギャラリーと市立絵画ギャラリーが入居しているホーエス・シュロス
ホーエス・シュロスの州立ギャラリー
かつてアウクスブルク司教領主の居館であった後期ゴシック様式 のフュッセン・ホーエスシュロスの北棟にバイエルン州立絵画コレクションの分館ギャラリーがある。
ここにはかつてこの城館の部屋を飾っていた後期ゴシック様式 のパネル画 や彫刻が展示されており、15世紀から16世紀への境目のアルゴイ地方やシュヴァーベン地方の芸術を概観することができる。
特に注目すべきは聖ウルリヒ 、聖アフラ 、聖ジムペルト、聖母 のレリーフ が施された格天井 を持つ騎士の間である。ハンス・ホルバイン (父) やハンス・ブルクマイアー (父)のステンドグラス は皇帝マクシミリアン1世 治下のフュッセンの文化的繁栄を偲ばせる。
市立絵画ギャラリー
ホーエス・シュロスの北棟には市立絵画ギャラリーも入居している。コレクションの重点は19世紀のミュンヘン派の絵画で、カール・シュピッツヴェク 、フランツ・デフレッガー 、それにフュッセンで亡くなった芸術家のオスカー・フライヴィルト=リュッツオウ(1862年 - 1925年)らの作品である。
フランツ・グラーフ・フォン・ポッキ(1807年 - 1876年)の家族が保有していた作品は入れ替えで展示されている。
フュッセン市の文化芸術賞受賞者パーシー・リングス(1901年 - 1994年)やゴットフリート・アンドレアス・ヘルマン(1907年 - 2002年)の作品もここで見ることができる。
フュッセン市博物館
1913年に設立されていたフュッセン市博物館は、旧ベネディクト会聖マング修道院の南棟に新装オープンした。
この博物館の重点は、この建物自体である。聖マング修道院の重要な点は、それがバロック様式 による総合芸術 というコンセプトを有する点と、同時にそれでありながら中世の施設を保存しているという点にある。修道院 の主要部分は博物館の周囲に接続している。中世の回廊部分から、1602年ヤーコプ・ヒーベラー作の有名な『フュッセンの死の舞踏』を含むアンナ礼拝堂が発掘された。市の歴史コーナーでは、フュッセンのリュート製作、ヴァイオリン製作の歴史が解説されている。
この他にルートヴィヒ2世 が構想したものの、実際には建設されなかったファルケンシュタイン城 をヴァーチャルに訪れるコーナーもある。
建築
聖霊施療教会
ホーエス・シュロス・フュッセン
フュッセン聖マング修道院: 旧ベネディクト会の聖マング修道院は750年頃の聖マグヌス の活動を起源とする。現在のバロック建築 の修道院は1697年から1726年に建造されたものである。イタリア風のシンメトリックなバロック建築は地元の建築家ヨハン・ヤーコプ・ヘルコマー(1652年 - 1717年)の設計によるものであるが、この建築には特にヴェネツィア からの影響が見られる。この建物のハイライトは豊かな化粧漆喰とフレスコを備えた「フュルステンザール」である。この内装はアンドレア・マイニが設計し、ケンプテン の宮廷画家フランツ・ゲオルク・ヘルマンが製作したものである。この内容豊かな造形プログラムはフュッセンにおける聖界・俗界の中心としてのこの修道院の重要さを強調するものである。
フュッセン音楽劇場(旧ノイシュヴァンシュタイン音楽劇場): ノイシュヴァンシュタイン城を望む。
山の聖母教会: レヒ川の対岸に建つこの教会は1682年から1683年にヨハン・シュムーツァーによって建設された。内陣の礼拝堂は1854年に建設されたもので、フュッセンのカルヴァリ山巡礼路の出発点である。
クリップ教会: 1717年建造のほっそりとした単廊の建物はヨハン・ゲオルク・フィッシャーの作品である。
聖ゼバスティアン墓地教会: 元々市の東部にあった1507年建造の内陣に、1721年から1725年にヨハン・ゲオルク・フィッシャーが幅広のホール式長堂を増築したものである。
聖ウルリヒ・聖アフラ教会: この平屋の華奢な建物は1724年から1725年に建設された。
フランシスコ教会: 1763年から1767年に建設されたフランシスコ会修道院の修道院教会はロココ の調度を備えている。
聖霊施療教会: この教会は1748年から1749年にフランツ・カール・フィッシャーが築造したオリジナルの建物である。ファサードにはフレスコが描かれている。
スポーツ
フュッセンは国内外で成功した地元のアイスホッケー ・クラブ EVフュッセン によってドイツ全土で知られている。
映画
映画「大脱走 」でスティーブ・マックイーン が演じた有名なバイクのシーンは、この街と街の付近で撮影された。
聖マングの祭日
聖マングの祭日は9月6日である。この日は聖ミサ が挙行され、旧市街を通る松明の明かりに沿って多くの人々が進む。この祭日の週の間だけ特別な「マグヌスワイン」が売られる。これは500瓶しか生産されていない。2008年産のものは南チロル で生産され、それは「良い香り、素朴でフルーティ」と形容されている。
経済と社会資本
現在フュッセン地域は、「ケーニヒスヴィンケル」として知られる観光の中心地となっている。すぐ近くには王の城館であるノイシュヴァンシュタイン城 やホーエンシュヴァンガウ城 があり、鉄道で到着した観光客の多くはフュッセン駅でバスの73・78号線に乗り換える。フォルゲン湖畔にある劇場ではルートヴィヒ2世 のミュージカルが上演されている。
人物
聖マグヌス像
出身者
ゆかりの人物
参考文献
FEISTLE: Materialien zur Geschichte der Stadt Füssen, Füssen 1861.
Wolfgang WÜST: Artikel "Füssen", in: Werner PARAVICINI (Hg.): Höfe und Residenzen im spätmittelalterlichen Reich. Ein dynastisch-topographisches Handbuch, 2 Teilbde (1: Dynastien und Höfe, 2: Residenzen) (Residenzenforschung 15 I/ 1,2) Ostfildern 2003, Bd. 1, S. 204-205.
引用
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
フュッセン に関連するカテゴリがあります。
外部リンク