ウィリアム・ソルター (英語版 ) による肖像画、1834年と1840年の間。
初代アングルシー侯爵 ヘンリー・ウィリアム・パジェット (英語 : Henry William Paget, 1st Marquess of Anglesey KG GCB GCH PC [ 注釈 1] 、1768年 5月17日 – 1854年 4月29日 )は、イギリス の貴族、陸軍 軍人、政治家。騎兵隊長として1799年のオランダ遠征 (英語版 ) 、半島戦争 の1808年戦役、1815年の第7次対仏大同盟 戦争に参戦、ワーテルローの戦い で戦功をあげつつ右足を失い、以降義足を使用した[ 2] 。以降は政治家に転身、兵站総監 (英語版 ) (在任:1827年 – 1828年、1846年 – 1852年)、アイルランド総督 (在任:1828年 – 1829年、1830年 – 1833年)を歴任した[ 1] 。アイルランド総督としてはウェリントン公爵内閣 と異なりカトリック解放 を支持したため、1829年に召還された[ 3] 。2度目の任命ではダニエル・オコンネル の合同法廃止運動 (英語版 ) が主な課題だった[ 4] 。軍人としての最終階級は陸軍元帥 (1846年)。
生涯
生い立ち
初代アクスブリッジ伯爵ヘンリー・パジェット と妻ジェーン(Jane 、旧姓シャンパーニュ(Champagné )、1742年ごろ – 1817年3月9日、アーサー・シャンパーニュの娘)の息子として、1768年5月17日に生まれ、6月12日にで洗礼を受けた[ 1] 。1777年から1784年までウェストミンスター・スクール で教育を受けた後[ 5] 、1784年10月14日にオックスフォード大学 クライスト・チャーチ に入学、1786年6月28日にM.A. の学位を修得した[ 6] 。1786年から1788年まで大陸ヨーロッパ を旅した後[ 5] 、1790年に大学を出た[ 7] 。在学中は海軍入りを望んだが、1788年にシュレージエン でプロイセン王国 の閲兵をみて、騎兵に憧れるようになった[ 5] 。
庶民院議員
父の意向により[ 5] 、1790年イギリス総選挙 でカーナーヴォン選挙区 (英語版 ) にて無投票で当選した[ 8] 。庶民院 では父の想定通りに第1次小ピット内閣 を支持、1791年にはスコットランドにおける審査法 廃止に反対したとされたが、1793年以降は軍務により度々議会を不在にするようになった[ 5] 。1796年イギリス総選挙 ではミルボーン・ポート選挙区 (英語版 ) に転じ、1,500ポンド以上を費やして58票でトップ当選した[ 9] 。1802年イギリス総選挙 では無投票で再選した[ 9] 。1803年ごろには王太子ジョージ (後の国王ジョージ4世)の友人になり、王太子の債務に関する採決で王太子を支持した[ 5] 。1804年にアディントン内閣 が成立すると、父は内閣を支持、パジェット卿が小ピット の野党を支持するとパジェット卿を落選させると脅した[ 5] 。しかしパジェット卿は小ピット支持を堅持し[ 5] 、1804年6月ごろにチルターン・ハンドレッズ執事 (英語版 ) に任命される形で議員を辞任した[ 10] 。1810年、チルターン・ハンドレッズ執事に任命される形で議員を辞任した[ 11] 。
1806年イギリス総選挙 ではミルボーン・ポートにおけるパジェット家の影響力に対する反対運動があったため、再びミルボーン・ポートから出馬して当選、1807年イギリス総選挙 でも再選した[ 9] 。パジェット卿は1806年から1807年までの挙国人材内閣 (英語版 ) を嫌い、父も内閣を支持しなかったが、パジェット卿の議会活動は引き続き低調だった[ 5] 。内閣がカトリック解放 問題により倒れると、カトリック解放を支持したパジェット卿は国王ジョージ3世 を「降伏より玉座で死ぬことを選ぶ」(would died upon his throne rather than submit )と評し、新内閣である第2次ポートランド公爵内閣 (1807年 – 1809年)についてもあまりよい評価を与えなかった[ 5] 。1808年から1809年にかけては半島戦争 とワルヘレン戦役 (英語版 ) により議会を不在にし、ワルヘレン戦役を受けて同年のクリスマスまでに政権交代があると予想して的中した[ 5] 。1810年1月、離婚問題により庶民院議員の辞任を余儀なくされた[ 5] [ 9] 。
このように、パジェット卿は庶民院議員としてあまり活動的ではなく、一度も演説しなかった[ 2] 。『英国議会史 (英語版 ) 』はパジェット卿の政歴が正確には1827年に始まったと評した[ 5] 。
軍歴
連隊長への昇進
1793年にフランス革命戦争 が勃発すると、スタッフォードシャー で民兵隊が招集され、同年9月に第80歩兵連隊 (英語版 ) として正規軍に組み込まれると、パジェット卿は連隊長に任命された[ 12] 。同年12月21日、『ロンドン・ガゼット 』でパジェット卿にlieutenant-colonel-commandant の臨時階級を与えることが発表された[ 13] 。連隊はまずガーンジー島 に駐留した後[ 3] 、パジェット卿の指揮のもとフランドル戦役 (英語版 ) に参戦した[ 12] [ 14] 。
1795年4月14日に第7歩兵連隊 (英語版 ) の中尉に昇進したが[ 15] 、同日に直ちに第23歩兵連隊 (英語版 ) の大尉に昇進した[ 16] 。以降は短期間で昇進を繰り返し、1795年5月23日に第65歩兵連隊 (英語版 ) の少佐に昇進[ 17] 、30日に第80歩兵連隊の中佐に昇進[ 18] 、6月20日に第16軽竜騎兵連隊 (英語版 ) の中佐に転任[ 19] 、1796年5月14日に大佐に名誉昇進 (英語版 ) [ 20] 、1797年4月8日に第7軽竜騎兵連隊 (英語版 ) の中佐に転じた[ 21] 。第7軽竜騎兵連隊では紀律粛正に勤しみ[ 7] 、以降も配下の騎兵を鍛え上げて、のちの上官サー・ジョン・ムーア (英語版 ) が「私たちの騎兵はフランスのすべての騎兵より良質である」(Our cavalry is very superior in quality to any the French have )と評するに至った[ 14] 。パジェットのもとでは軍服も高品質が保たれ、パジェットはヴィクトリア朝 になっても連隊の軍服である「パジェット・ブルーコート」(Paget blue coat )を着用し続けた[ 2] 。
オランダ遠征
1799年、ヨーク=オールバニ公フレデリック が指揮したオランダ遠征 (英語版 ) に参戦、4個連隊で構成される騎兵旅団を指揮した[ 3] 。遠征の最初はアムステルダム の北にある岬での行動に限定されていたため、騎兵が活躍する場はなかったが[ 3] 、10月2日のアルクマールの戦い (英語版 ) で騎兵を率いて突撃を成功させた[ 7] 。戦闘自体が敗戦に終わると、パジェット卿は殿軍を指揮して撤退を援護、シモン将軍(Simon )率いるフランス騎兵を撃退した[ 7] 。6日のカストリクムの戦い (英語版 ) においてもイギリス騎兵が活躍した[ 3] 。その後、10月18日に停戦が合意され、遠征軍は帰国した[ 3] 。
1801年5月16日、第7軽竜騎兵連隊の隊長(大佐)に昇進した[ 22] 。以降1808年まで戦役に関わらなかったが[ 5] 、1802年5月11日に少将に[ 23] 、1808年5月7日に中将に昇進した[ 24] 。
半島戦争
ヘンリー・エドリッジ (英語版 ) による肖像画、1808年。
半島戦争 では1808年末に騎兵2個旅団 を率いて、デイヴィッド・バード (英語版 ) 率いる陸軍師団と合流するよう命じられた[ 7] 。パジェット卿はア・コルーニャ に上陸した後、辛くもバードとの合流に成功した[ 7] 。このとき、サー・ジョン・ムーア (英語版 ) 率いる2万の軍勢がリスボン から進軍してきており、バードとムーアは合流する予定だったが、ナポレオン・ボナパルト が破竹の勢いで進軍してきたため、バードとムーアはそれぞれア・コルーニャとリスボンに向けて撤退した[ 2] 。これを知ったナポレオンはバードとムーアが全面撤退に転じたと判断してマドリード に進軍、スペイン北西部にはスールト 元帥率いる1万8千の軍勢を残しただけだった[ 2] 。撤退戦でイギリス軍の損害が増える中、パジェット卿はサハグンの戦い (英語版 ) で1個連隊を率いてフランスの騎兵旅団に突撃して戦功をあげた[ 2] 。
パジェットの援護もあり、12月20日にはバードとムーアがスールトに知られないままマヨルガ(Mayorga )で合流したが、ナポレオンは22日にマドリードを陥落させると、自軍20万を率いてイギリス軍を掃討してきたため、イギリス軍は撤退を再開した[ 2] 。29日、パジェットはベナベンテの戦い (英語版 ) でシャルル・ルフェーブル=デヌエット (英語版 ) 率いるフランス騎兵と戦った[ 2] 。このとき、エスラ川 の橋が爆破されていたため、フランス軍は代わりに渡れる浅瀬を探したが、パジェットは哨兵隊でフランス軍を引きつけ、フランス騎兵が哨兵隊に向けて突撃すると、その横から第10ハザール連隊 (英語版 ) を突撃させて撃破[ 2] 、ルフェーブル=デヌエットを捕虜にした[ 7] 。イギリス軍がガリシア の山岳地帯まで撤退すると、後衛は歩兵が務めることになり、パジェットも病気になって戦闘に参加できず、1809年1月のア・コルーニャの戦い (英語版 ) ではムーア戦死の報せを船上で聞いた[ 2] 。その後、1809年のワルヘレン戦役 (英語版 ) で1個師団を指揮した[ 14] 。ワルヘレン戦役以降は一時戦争での任務を与えられず、次に実戦を経験するのは1815年のこととなった[ 5] 。
百日天下
アングルシー侯爵の円柱 (英語版 ) 。スランヴァイルプールグウィンギル 、2005年撮影。
1815年1月2日、バス勲章 ナイト・グランド・クロスを授与された[ 25] 。同年に穀物法 をめぐる暴動が勃発したとき、ロンドンで小部隊を指揮した[ 2] 。ナポレオンの百日天下 では4月15日に初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー よりイギリス騎兵の指揮を任せられ、6月18日のワーテルローの戦い の直前には同盟軍の騎兵の指揮も任せられた[ 2] [ 14] 。しかし、糧秣の補給もあり、イギリス騎兵は広範囲に散らばっており、6月16日のカトル・ブラの戦い ではこれが仇となり、騎兵が歩兵の支援に間に合わなかった[ 2] 。その後、6月17日に同盟軍がカトル・ブラ からワーテルロー に撤退したとき、パジェット伯爵は撤退を援護した[ 14] 。18日のワーテルローの戦い では衛兵隊を率いて2回突撃した後、重騎兵を率いて3度目の騎兵突撃を敢行、フランスの衛兵隊を撃破した[ 7] 。『ブリタニカ百科事典 』第9版と第11版 はアクスブリッジ伯爵の戦功をウェリントン公爵に次ぐと評した[ 7] [ 14] 。しかし、戦闘の最後になって、フランス軍の砲撃がアクスブリッジ伯爵の右足にあたり、その夜には右足の切除を余儀なくされた[ 1] [ 2] [ 7] 。3週間後、アクスブリッジ伯爵はロンドンに戻った[ 2] 。
ワーテルローでの戦功と片足を失ったことにより、イギリス議会はアクスブリッジ伯爵への1,200ポンドの年金を可決したが、伯爵はこれを固辞[ 7] 、代わりに7月4日に連合王国貴族 であるアングルシー侯爵 に叙された[ 1] 。8月21日にはオーストリア帝国 からマリア・テレジア軍事勲章 を、ロシア帝国 から聖ゲオルギー勲章 (英語版 ) を授与された[ 1] 。1816年、ロイヤル・ゲルフ勲章 (英語版 ) を授与された[ 1] 。1818年3月13日、ガーター勲章 を授与された[ 26] 。1819年8月12日、陸軍大将に昇進した[ 27] 。
アングルシー侯爵の義足、2013年撮影。
「アクスブリッジ卿の足 (英語版 ) 」はのちにワーテルローで「埋葬」された[ 2] 。ロンドンに戻ったアングルシー侯爵は関節付きの義足 を使用し、この義足はのちに「アングルシーの足」(Anglesey leg )と呼ばれた[ 2] 。また、記念として1816年にアングルシー侯爵の円柱 (英語版 ) (トマス・ハリソン (英語版 ) 設計)がアングルシーで建てられ、1859年に円柱の上にアングルシー侯爵の銅像(マシュー・ノーブル (英語版 ) 作)が建てられた[ 2] 。
爵位継承
ジョージ・ドー(George Dawe )による肖像画、1817年ごろ。
1812年3月13日に父が死去すると、アクスブリッジ伯爵 位を継承[ 1] 、貴族院 議員に就任した[ 7] 。1812年6月18日に父の後任として北ウェールズ海軍次官 (英語版 ) およびカーマーゼン海軍次官に任命され、おそらく1854年に死去するまで務めた[ 28] 。庶民院ではミルボーン・ポートの2議席[ 29] やアングルシー選挙区の1議席[ 30] などで影響力を有した。
1820年11月にジョージ4世 妃キャロライン・オブ・ブランズウィック への痛みと罰法案 (英語版 ) に賛成票を投じた[ 31] 。これにより一時人気を失った[ 7] 。群衆に囲まれて、「王妃」(The Queen [ 注釈 2] )と叫ばされると、「あなたたちの妻も彼女と同じになるように」(May all your wives be like her [ 注釈 3] )と群衆を呪った[ 14] 。1821年7月のジョージ4世 戴冠式で大家令 を務めた[ 32] 。1826年3月25日、Captain of Cowes Castle に任命された[ 33] 。
アイルランド総督
カニング内閣 の成立に伴い、1827年4月30日に兵站総監 (英語版 ) に任命され[ 34] 、閣僚になった[ 3] 。同時に枢密顧問官 にも任命された[ 7] 。
1828年1月にウェリントン公爵内閣 が成立すると[ 4] 、同年2月27日にアイルランド総督 に任命された[ 35] [ 注釈 4] 。『英国人名事典 』によれば、アイルランド総督への任命は新内閣成立以前には内定されていた[ 3] 。しかし、侯爵がかねてよりカトリック解放への支持で知られていたため、カトリック解放に反対した首相ウェリントン公爵と内相ロバート・ピール との関係は最初からよくなかった[ 4] 。
この時期、アイルランドではダニエル・オコンネル の指導するカトリック協会 (英語版 ) がカトリック解放問題の解決を迫ろうとしており、国王ジョージ4世 は出立する前のアングルシー侯爵に対し、「真のプロテスタントであることを信じる」(I know you are a true protestant )と述べたが、アングルシー侯爵は「私はプロテスタントとしてもカトリックとしても扱われません。私はアイルランドに行って、両者の間で公正にふるまうことを決心しました」(I will not be considered either protestant or catholic; I go to Ireland determined to act impartially between them )と返答した[ 3] 。同年7月にカトリックへの譲歩の必要性に気づき、ジョージ4世は8月には早くもアングルシー侯爵の召還を望んだが、公爵は世論に受け入れられる理由がないとして召還をせず、11月11日に侯爵への手紙で侯爵のカトリック協会への融和的な態度に抗議するにとどまった[ 3] 。
アングルシー侯爵はアイルランド総督として、経済の発展に向けた提案をしたが、悉く無視された[ 4] 。さらに内閣の意向と違い、1828年12月の手紙でカトリック解放 への支持を表明したため、1829年1月初に政府により召還され[ 14] [ 4] 、19日にアイルランドを発った[ 2] 。一方、『オックスフォード英国人名事典 』では侯爵の召還が1828年12月30日には決定され、手紙の件は侯爵の出立を早めただけだとした[ 2] 。カトリック解放への支持によりアイルランドでの人気は高く、アングルシー侯爵の召還はアイルランド人に惜しまれた[ 14] 。『アイルランド人名事典 』によれば、アングルシー侯爵は召還の件によりアイルランドでの人気がさらに高まったという[ 4] 。これによりカトリック解放が一気に遠のいたように感じられたが、結果的にはウェリントン公爵が国王の説得に成功、4月13日には1829年ローマ・カトリック信徒救済法 が成立した[ 3] [ 2] 。
1830年11月、グレイ伯爵内閣 の成立に伴いアングルシー侯爵はアイルランド総督を再任した[ 14] 。しかし、配下の主席政務官 (英語版 ) スタンリー卿エドワード・スミス=スタンリー が入閣した一方、アングルシー侯爵は閣外大臣だった[ 4] 。このとき、カトリック解放はすでになされており、アングルシー侯爵はカトリックとプロテスタントの融和に努めようとしたが、ダニエル・オコンネル の合同法廃止運動 (英語版 ) に直面した[ 4] アングルシー侯爵は内閣の支持を受けて強硬策をとり、1831年1月14日にオコンネルが銀行の取り付け騒ぎ を起こすべきと公言するとオコンネルの逮捕に踏み切り、「アイルランドを統治するのは彼か私か、というところまで来ている」(Things are now come to that pass that the question is whether he or I shall govern Ireland )と評した[ 3] [ 2] [ 4] 。
1831年3月1日、事態が急転した。内閣が第1回選挙法改正 の計画を提出し、オコンネルが廃止運動をいったん止めて選挙法改正への支持を表明したのであった[ 2] 。アングルシー侯爵も選挙法改正を支持し、十分の一税問題 (英語版 ) の解決も主張したが、後者はあまり成果が上がらなかった[ 2] 。1831年10月に提出された、選挙法改正の第2次法案に賛成票を投じた[ 36] 。
アイルランドでの治安維持のため強圧法(Coercion Act )の成立を求めて人気を失ったが[ 14] 、『オックスフォード英国人名事典 』によれば、アングルシー侯爵は強圧法を成立させただけで十分だと感じ、実際に運用することはなかった[ 2] 。強圧法以外では教育委員会(Board of Education )の成立に貢献[ 14] 、特に国立の初等教育 制度の設立に成功、1843年にはアイルランドで40万人の子供が国立学校に通うほどだった[ 4] 。一方、救貧法 改革は進められなかった[ 4] 。そして、1833年7月の内閣総辞職でアングルシー侯爵も同年9月にアイルランド総督を辞任した[ 4] [ 14] 。
1842年12月20日、第7軽竜騎兵連隊隊長から王立近衛騎馬連隊 (英語版 ) 名誉連隊長に転じた[ 1] [ 14] [ 37] 。
最晩年
アングルシー侯爵の肖像画、1840年。
第1次ラッセル内閣 の成立に伴い、1846年7月8日に再び兵站総監に任命され[ 38] 、1852年2月27日まで務めた[ 3] 。この任命も閣外大臣としての任命だった[ 2] 。1846年11月9日、陸軍元帥 に任命された[ 39] 。アングルシー侯爵は兵站総監としてウェリントン公爵に協力して、イギリスの海岸防衛の弱さを政府と世論に気づかせようとし、2人は各地の海岸防衛を視察して回った[ 2] 。一方、フランスのシェルブール を視察したときは「強固に守られている」(amply protected )と評している[ 2] 。このときにはアングルシーもウェリントンも聴力が低下しており、2人が公にも私的にもよく一緒に行動したこともあって、「耳の遠い老いぼれ貴族2人がお互いに叫びあっている」という光景が度々みられた[ 2] 。ワーテルローの戦いに参加した上級将官のうち、ウェリントンより後に死去したのはアングルシー侯爵だけだった[ 2] 。
1849年1月31日、スタッフォードシャー統監 (英語版 ) に任命された[ 40] 。
1854年4月29日に卒中を起こして[ 2] 、ロンドン のアクスブリッジ・ハウス(Uxbridge House )で死去した[ 1] 。ヴィクトリア女王 の意向により国葬 が行われ[ 2] 、5月6日にリッチフィールド聖堂 (英語版 ) に埋葬された[ 1] 。1人目の妻との間の息子ヘンリー が爵位を継承した[ 1] 。
家族と私生活
アングルシー侯爵夫人キャロライン・エリザベス (英語版 ) と長男ヘンリー 。ジョン・ホプナー 画、1800年。
1795年7月25日、キャロライン・エリザベス・ヴィリアーズ (英語版 ) (1774年12月16日 – 1835年6月16日、第4代ジャージー伯爵ジョージ・ヴィリアーズ の娘)と結婚、3男5女をもうけた[ 1] [ 41] [ 42] 。
2人の結婚生活はうまくいかず[ 7] 、パジェットはシャーロット・ウェルズリー (英語版 ) (1781年7月11日 – 1853年7月8日、サー・ヘンリー・ウェルズリー (のち初代カウリー男爵 )の妻、初代カドガン伯爵チャールズ・スローン・カドガン の娘)と不倫した[ 1] 。キャロライン・エリザベスがスコットランドの裁判所で訴訟を起こした結果、パジェットはヘンリー・ウェルズリーに24,000ポンドを支払い、さらにパジェット夫婦とウェルズリー夫婦の結婚が解消された[ 1] 。また、キャロライン・エリザベスの兄ヘンリー (英語版 ) がパジェットに決闘 を申し込む事態になった[ 1] 。1809年5月30日に行われた決闘ではカドガンが銃弾を放ってミスし、パジェットがわざと外した上でウェルズリー家にこれ以上傷をつけるわけにはいかないと述べた[ 2] 。キャロライン・エリザベスは1810年11月29日に第6代アーガイル公爵ジョージ・ウィリアム・キャンベル と再婚、パジェットはシャーロットと再婚した[ 1] 。
パジェットとシャーロットは6男4女をもうけた[ 41] [ 42] 。
アングルシー侯爵の現存する手紙集から、アングルシー とカーナーヴォン における発展に寄与し、両カウンティの住民の多くがアングルシー侯爵の後援に恩恵を受けたことが見てとれる[ 44] 。
注釈
^ 結婚記録では名が「ヘンリー・ウィリアム・ベイリー・ピーター・ウォルター」(Henry William Bayly Peter Walter )とされる[ 1] 。
^ 訳注:痛みと罰法案を支持したアングルシー侯爵はキャロラインが不貞を働き、王妃に不適であると考えたため、群衆は侯爵に「王妃」として承認することを強要した。
^ 訳注:アングルシー侯爵はキャロラインが不貞を働いたと信じていたため、この言葉は「あなたたちの妻もみな不貞を働くように」という意味。
^ アングルシー侯爵はアイルランドで小さな領地を有した[ 4] 。
出典
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関連図書
外部リンク