ヤロスラフ・イングヴァレヴィチ(ウクライナ語: Ярослав Інґварович、? - 1229年以降)は、イングヴァリ・ヤロスラヴィチの4人の息子のうちの1人である。シュムスク公(在位:1223年 - 1227年)、ルーツク公(在位:1227年 - 1228年)、メジュィボジュ公(在位:1228年 - ?[1][注 1])。
1228年のカルカ河畔の戦いで、ヤロスラフの2人の兄(ドロゴブージ公イジャスラフ・シュムスク公スヴャトスラフ)は戦死した。また、1227年に従弟のルーツク公イヴァンが死んだ後、ヤロスラフはルーツクを得た。しかしすぐさまヴォルィーニ公ダニールによって追放され、代わりにペレムィシュリとメジュィボジュを得た[2]。1230年にはダニールがガーリチへの遠征を行い、弟のウラジーミルはこれに加わったが、ヤロスラフは参加していない。
モンゴルのルーシ侵攻の最中には、カメネツにおいて、キエフからハンガリーへ逃亡中のキエフ大公ミハイルの家族を捕獲した。
なお、『ラヴレンチー年代記』においては、ウラジーミル大公ヤロスラフと混同された記述がみられる[3]。
妻はスモレンスク公ロマン・ロスチスラヴィチの娘[要出典]。子の名はボリス。