上杉 憲勝(うえすぎ のりかつ)は、戦国時代の武士。扇谷上杉家当主。
略歴
扇谷上杉氏の一族とも言われるが、出自は深谷上杉家あるいは山内上杉家で扇谷家の猶子であったも言われる。上杉朝昌の子とも、上杉定正の子とも、上杉朝興の子ともいう。
はじめ七沢七郎を名乗って奥羽を浪人していたという。朝興の子である朝定[1]が河越城の戦いで戦死して扇谷上杉氏の嫡流が滅亡すると、太田資正に擁立されてその跡を継ぐ。
永禄2年(1559年)、資正が北条氏康から松山城を奪還すると、城主として入城する。しかし、2年後には北条・武田連合軍に包囲されて降伏した。憲勝の救援に向かっていたが、石戸城に到達したところで降伏の知らせを聞いた上杉輝虎は激怒し、人質に取っていた憲勝の子を斬り殺したという。
脚注
- ^ 後者の説に従えば、憲勝の兄。