宮平親方良廷(みやひらうぇーかたりょうてい)は、琉球王国の官僚。唐名は馬宣哲(ば せんてつ)を名乗った。
馬氏宮平殿内と称される貴族家系の出身。1755年から1782年にかけては、三司官を務めた[1]。
三司官在任中の1775年、宮平は当時摂政であった読谷山朝憲や、三司官であった湧川朝喬、与那原良矩らと共に、琉球王朝史上初となる成文法の制定案を提出した。この制定案は尚穆王によって承認され、1786年に完成した[2][3]。
宮平はまた、皇太子尚哲の烏帽子親も務めた[4]。