小島 伊佐美 (こじま いさみ、1875年 (明治 8年)3月16日 - 1945年 (昭和 20年)6月15日 )は戦前日本 のドイツ語 教師。石川県 士族 。熊本市 第五高等学校 で44年間ドイツ語を教えた。
経歴
学生時代
1875年(明治 8年)3月16日石川県 金沢 に小島与次郎の長男として生まれた。原籍は川上新町3丁目12番地。1881年(明治14年)5月金沢の小学校に入学し、1888年(明治21年)11月共立尋常中学校(後の金沢一中 )第2年級に編入、1892年(明治25年)4月第1回生として卒業し、同校予備科で嘱託教師を務めた。
1893年(明治26年)9月11日第四高等中学校 本科第1年級に入学し、徳永富 ・蒲生重実 にドイツ語を学んだ。両親は共働きで学業を助けたが、生活は苦しく、校長・教員に庇護を受けたという。
1895年(明治28年)7月10日四高を卒業、9月11日東京帝国大学文科大学 独逸文学科に入学し、カール・フローレンツ に学んだ。同級の藤井信吉 、1級上の青木昌吉 、2級下の高木敏雄 とは後に五高で同僚となった。
五高時代
1900年(明治33年)5月の五高教授陣と生徒。第2列左から4人目が長谷川貞一郎、5人目が小島伊佐美、7人目が櫻井房記 校長、8人目が夏目漱石 、9人目が武藤虎太[ 5] 。
1912年(明治45年)6月ヨーゼフ・プラウト送別記念写真。熊本岩田写真館で撮影。前列右から2人目が小島伊佐美[ 6] 。
1898年(明治31年)7月10日帝大を卒業、8月16日第五高等学校 嘱託講師となり、結婚で転出した長谷川貞一郎 と入れ替わりに熊本市 北新坪井 合羽丁の下宿に住み込んだ。1899年(明治32年)2月10日教授となり、1901年(明治34年)大学予科独語科主任、1906年(明治39年)6月第五学科(ドイツ語科)主任、1909年(明治42年)1月評議員、1911年(明治44年)10月第三部長を歴任した。
1912年(大正 元年)9月6日同僚桑野礼治 が広島県 忠海町 で海水浴中脳貧血 で水死し、同月現地調査に赴いた。1915年(大正4年)7月中国 ・朝鮮 出張を命じられたが、病気のため菊地行蔵 が代理で赴任した。
1920年(大正9年)9月13日文部省 により1年半のドイツ ・アメリカ合衆国 留学を命じられ、22日私費留学を決めた同僚坂田道男 と春洋丸 で横浜港 を出港、サンフランシスコ ・ロサンゼルス ・グランドキャニオン ・シカゴ ・ナイアガラの滝 を観光し、ニューヨーク を拠点にワシントンD.C. ・ボストン にも足を伸ばした。アメリカの大学については、男女共学、黒人の黒さと数、運動の活発さ、寄付文化、博物館の充実ぶりが印象に残ったという。12月25日ホワイト・スター・ライン の汽船でニューヨークを発ち、1921年(大正10年)1月2日リヴァプール に到着、ロンドン に入り、秩序立った労働運動に感銘を受けた。ここで坂田と別れて大陸に渡り、パリ で第一次世界大戦 の傷跡を目にし、ベルギー ・ベルギー を経てドイツ に入った。ベルリン大学 で聴講生となるも、授業には出ず、スイス ・イタリア ・チェコスロバキア ・オーストリア ・ハンガリー を巡り、後から来た坂田とデンマーク ・スウェーデン ・ノルウェー を旅行し、マルセーユ から出航、1922年(大正11年)8月23日神戸港 に帰国した。
元教え子松尾精一 に主任教授の座を譲り、1932年(昭和 7年)2月6日教授を辞職した後も、嘱託講師として無給で勤め続けた。5月14日武藤虎太 と共に同校初の名誉教授となった。
晩年
1944年(昭和19年)3月31日五高を退職し、東京府 吉祥寺 の長女イサ家に退隠した。戦時中、妻幸枝と孫娘は熊本県山鹿郡 の実家に疎開、養子貞介 は出征しており、残った子等と配給生活を営む中で衰弱し、1945年(昭和20年)6月15日東京都 北多摩郡 武蔵野町 吉祥寺 650番地(武蔵野市 吉祥寺北町 2ノ1ノ3番地)の自宅で死去した。朝食のためテーブルに座ると同時に息を引き取ったという。
戒名は直心院釈二謝居士。隣組 長川田某により葬儀が行われ、戦後西宮市 在住の弟善訓により金沢市橋場町 善福寺 に葬られ、後に野田町野田山 墓地の小島家墓に合葬された。
著書
『独語文法教科書』 Deutsche Schulgrammatik für Japaner - 1905年(明治38年)11月刊。全文ドイツ語の教科書。「小島文典」として重んじられた。
『独逸語教本』 Lehrbuch des Deutschen [ 10] - 1908年(明治41年)9月起稿、1911年(明治44年)9月刊。英語の素養ある初年級生徒を対象とした文法書。謝辞にはヨーゼフ・プラウト 、ヴィリー・プレンツェル を挙げる。1941年(昭和16年)1月の第13版には「教育勅語 」独訳 Das Kaiserliche Reskript über die Japanische Nationalerziehung を掲載した。
『独逸新読本』
『独逸時事読本』 - 1914年(大正3年)3月刊。
Der energetische Imperativ aus Wilhelm Ostwalds monistischen Sonntagspredigten. - 1933年(昭和8年)刊。
人物
小島伊佐美
1902年(明治35年)卒田島勝太郎 によれば、若い頃は「クナーベ 」(少年)と呼ばれ、美男子として女性から人気があった。
1936年(昭和11年)卒木下順二 によれば、授業の雰囲気は基本的に和やかで、課題を当てられても「やって来とりません」と申告すればやり過ごすことができた。一方、生徒が誤答した場合は正解を教えず、自身で答えに辿り着かせることを方針としており、東明雅 が音読でdurch の発音を誤った時、何度言い直しても「いいえ」と否定されるのみで、そのまま授業が終わったことがあった。1942年(昭和17年)卒平野龍一 によれば、問題を当てられた生徒が正答できないまま授業が終わり、次の時間に再度問題を当てられたため、生徒は意地になって黙り込んだが、伊佐美も黙って待ち続け、数十分後ついに生徒が根負けして答えたことがあった。
伊佐美も優等生と認めた1918年(大正7年)卒向坂逸郎 は「忘れ得ぬ人々」として「小島さん」を挙げ、「おこりもせず、おだてもせず、へつらいもせず、静かな科学者」だったと評する。また死生観について、「私は世の中の隅っこの方でそっと死にたい」とこぼしたことがあったという。
趣味は昼寝・茶道・謡曲で、忠海町 で船を借り、親戚と鯛釣りを楽しんだこともあった。日本酒を好んだ。
栄典
1899年(明治32年)2月10日 従七位
1911年(明治44年)12月 勲六等 瑞宝章
1915年(大正4年)11月 大礼 記念章
1916年(大正5年)6月 勲五等瑞宝章
1921年(大正10年)11月 勲四等瑞宝章
1928年(昭和3年)3月 正四位
1928年(昭和3年)4月 勲三等瑞宝章
1932年(昭和7年)2月 従三位
家族
先祖は前田利家 家臣という。
父:小島与次郎 - 石川県士族。明治維新 後は学校で読み書きを教え、金沢市 雇員を務めた。1904年(明治37年)11月頃没。
母:志げ - 石川県士族榊原誠斎長女。嘉永 4年(1851年)7月25日生。1894年(明治27年)頃、伊佐美の学資のため筆紙商を営んだ。
妹:由子 - 1887年(明治20年)11月生。石川県立高等女学校出身。富山県 柿沢信義 と結婚した。
弟:善訓 - 1892年(明治25年)11月生。山口高等商業学校 出身。住友 社員。坂田貞 次女ツヤと結婚した。
先妻:ヒデ - 若松雅太郎・エイの長女。1904年(明治37年)1月結婚。1907年(明治40年)イサ出産後の肥立ちが悪く、7月30日知足寺町16番地で没。
娘:イサ - 1907年(明治40年)5月26日生。尚絅高等女学校 出身。
後妻:幸枝(ユキエ) - 安部井太郎・中原スマ長女、中原淳蔵 の姪。1885年(明治18年)7月熊本県山鹿郡 生。日本女子大学校 出身。1909年(明治42年)8月30日結婚。
脚注
参考文献