鳥居 忠意(とりい ただおき)は、江戸時代中期から後期の大名。下野壬生藩の第3代藩主。壬生藩鳥居家7代。
生涯
享保2年(1717年)、下野壬生藩第2代藩主・鳥居忠瞭の長男として生まれた。
享保18年(1733年)7月28日に江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗に拝謁し、享保19年(1734年)12月18日に叙任された。享保20年(1735年)に父が死去したため家督を継いだ。
見目がよかったため将軍・徳川吉宗に抜擢され、日光東照宮への将軍の名代としての代参役を勤めた。その際に将軍家の葵紋入りの羽織を与えられており、この後も日光代参役を何度も勤めた。延享4年(1747年)5月15日に奏者番となり、宝暦2年(1752年)4月23日には寺社奉行を兼務した。宝暦10年(1760年)3月22日には若年寄となったが、翌年に第9代将軍・徳川家重が死去すると全ての職を辞職した。
再度の出仕
ところが、宝暦12年(1762年)5月24日に再び奏者番、寺社奉行、若年寄を兼務することになり、天明元年(1781年)閏5月11日には西の丸老中となり同年9月18日に従四位下を叙任された。天明6年(1786年)に徳川家斉が新将軍となると、本丸老中に任じられた。
寛政3年(1791年)10月11日に眼疾に倒れて、寛政5年(1793年)に高齢のため老中職を辞した。
晩年
この間、世子の長男の忠求が寛政元年(1789年)に早世。忠求の長男の忠貴を世継ぎと定めたが、寛政3年(1791年)に廃嫡した。次に世子とされた四男の忠見も寛政6年(1794年)5月12日に父に先立って死去した。
同年7月18日に死去、享年78。忠見の次男の忠燾が家督を継いだ。
家族
正室に寂死されたことをきっかけに、側室を多数抱えたが、側室同士が諍いの末に傷害致死事件を起こした。
系譜
父母
正室
側室
子女
13男7女とされる。
- ※ 花房両家、戸川氏は備前宇喜多氏の旧臣の家系。
養子
鳥居氏 壬生藩3代藩主 (1735年 - 1794年) |
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日根野家 | |
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阿部家 | |
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三浦家 | |
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大河内松平家 | |
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加藤家 | |
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鳥居家 | |
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