女優としてのキャリア初期には清純な娘役を演じることが多かったが、キャリア後期には存在感のある重厚な役柄を演じている[1]。デ・ハヴィランドはイギリス人の両親の間に日本で生まれた。妹のジョーン・フォンテインも日本の生まれで、デ・ハヴィランドと同じく女優の道に進んでいる。デ・ハヴィランドの家系は、イギリス王室の祖にあたるノルマンディー公ギヨーム2世(ウィリアム1世)と共にノルマン・コンクエストに加わったノルマン人のド・アヴィル (de Haville) にさかのぼる[2]。1919年に一家は日本を離れて故国イギリスへと向かったが、旅の途中で姉妹が病にかかったため滞在中のカリフォルニアに、母子だけがそのまま移住した。
これら3本のコメディ映画に対する評価は賛否両論であり、デ・ハヴィランドに対する観客からの反応はよくなかった[24]。ワーナー・ブラザースはデ・ハヴィランドを売り出す路線を変更することを決め、当時無名だったオーストラリアの俳優エロール・フリンの相手役として『海賊ブラッド』(1935年)に出演させるという賭けに出た。デ・ハヴィランドが起用されたのは、ワーナー・ブラザースのプロデューサーであるハル・B・ウォリスが、デ・ハヴィランドとのことを「お気に入り」で売り出したかったためだという要因もあった[26][26]。『海賊ブラッド』は大ヒットし、批評家たちも主演した二人の役者を高く評価した[27]。このため、デ・ハヴィランドとフリンの共演作品が次々と製作されることとなり、『進め龍騎兵 (en:The Charge of the Light Brigade)』(1936年)、『ロビンフッドの冒険』(1938年)、 『無法者の群』(1939年)、『カンサス騎兵隊 (en:Santa Fe Trail)』(1940年)、『壮烈第七騎兵隊』(1941年)など、合計8本の映画が製作されている[27]。
1930年後半にデ・ハヴィランドは、『Call It a Day』(1937年)、『結婚スクラム (en:Four's a Crowd)』(1938年)、『Hard to Get』(1938年)などさまざまな内容の現代風ライトコメディ作品に出演している。現代風コメディ以外の作品としては『風雲児アドヴァース (en:Anthony Adverse)』(1936年)、『The Great Garrick』(1937年)などに出演しており、これらの作品では、デ・ハヴィランドの洗練された容姿と美しい台詞回しが効果的に描写されている[28]。コメディ映画でのデ・ハヴィランドの演技は批評家からも観客からも概ね好評であり、デ・ハヴィランドが演じたいと望んでいたシリアスで重厚な役どころへと踏み出すきっかけとはならなかった[28]。そのような中で『風と共に去りぬ』(1939年)のメラニー・ハミルトンは、まさしくデ・ハヴィランドが求めていたシリアスな役だった。マーガレット・ミッチェルが書いた大河小説『風と共に去りぬ』を原作とするこの映画は、大物プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックが製作した大作である。原作小説を読んだデ・ハヴィランドは、このメラニー・ハミルトンが自分にとって大きな転機となる役だと直感した。『風と共に去りぬ』の監督に起用されたジョージ・キューカーが、デ・ハヴィランドの妹ジョーン・フォンテインにこのメラニー・ハミルトン役のオーディションを受けるよう勧めたという複数の資料が存在する。しかしながら、メラニー役よりも主役のスカーレット・オハラに興味を持っていたフォンテインはキューカーの誘いを断ったとされており、自分の代わりに姉デ・ハヴィランドをキューカーに推薦したといわれている[28]。最終的にはワーナー・ブラザースの社長ジャック・L・ワーナーの妻アンが、デ・ハヴィランドのメラニー役起用を後押ししている[29]。そして『風と共に去りぬ』でメラニーを演じたデ・ハヴィランドは、アカデミー助演女優賞にノミネートされた[30]。しかしながらこの年のアカデミー助演女優賞を受賞したのは、同じく『風と共に去りぬ』でスカーレットの黒人の召使マミー役を演じた女優のハティ・マクダニエルだった。
『風と共に去りぬ』のメラニー役で批評家たちから絶賛されたデ・ハヴィランドは、それまでにも増してシリアスで難しい役どころを演じてみたいと考えていた。しかしながらワーナー・ブラザースはデ・ハヴィランドの期待には応えなかった。『女王エリザベス (en:The Private Lives of Elizabeth and Essex)』(1939年)で、主役のベティ・デイヴィスとエロール・フリンに次ぐ三番目の役を演じたデ・ハヴィランドは、犯罪ドラマ映画『犯人は誰だ (en:Raffles)』(1939年)への出演を命じられて、ワーナー・ブラザース外部の映画プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンに預けられている。また、次作のライトコメディミュージカル映画『My Love Came Back』(1940年)の主役も決まっていた[31]。1940年代前半のデ・ハヴィランドは、演じがいがなく浅薄だと自身が思う役ばかりに起用されることに対して大きな不満を持つようになっていった[31][32]。『風と共に去りぬ』のメラニー・ハミルトン役で、シリアスな役どころも演じる能力があることを証明したと考えていたデ・ハヴィランドにとって、以前と変わらない純情な娘役や可憐な乙女役は苦痛でしかなかったのである。デ・ハヴィランドはこれまで同様の内容と配役で書かれた脚本を突き返すようになり、自身が望むやりがいのある役を積極的に探していった。さらにデ・ハヴィランドは、『カンサス騎兵隊』や『壮烈第七騎兵隊』など評判がよかったエロール・フリンとの長きにわたる共演も終わらせた。共演した最後の作品である『壮烈第七騎兵隊』はもっとも長く二人が語り合う場面が描写された作品となっている[31]。
1941年11月28日にデ・ハヴィランドはアメリカに帰化した[33][34]。
1940年代前半にデ・ハヴィランドが出演した映画でヒットした作品として『いちごブロンド (en:The Strawberry Blonde)』(1941年)、『Hold Back the Dawn』(1941年)、『カナリヤ姫 (en:Princess O'Rourke)』(1943年)などが挙げられる。『カナリヤ姫』で演じたマリア王女は、ワーナー・ブラザースで演じた役のうち、デ・ハヴィランドにとってもっとも満足のいく役どころだった[35][注 4]。デ・ハヴィランドは第14回アカデミー賞で、『Hold Back the Dawn』のエイミー・ブラウン役で主演女優賞にノミネートされた。
デ・ハヴィランドは、ワーナー・ブラザース作品の『男性 (en:The Male Animal)』(1942年)、『追憶の女 (en:In This Our Life)』(1942年)、『陽気な女秘書 (en:Government Girl)』(1944年)、『まごころ (en:Devotion)』(1946年)に出演した。『まごころ』の公開年は1946年だが撮影自体は1943年に終了しており、公開年としてはこの『まごころ』がデ・ハヴィランドの7年間にわたるワーナー・ブラザースとの契約における最後の出演作品となった。ワーナー・ブラザースはデ・ハヴィランドに6カ月の契約延長を告げたが、デ・ハヴィランドはこの申し入れを受け入れなかった[37]。当時の法律では、契約中の俳優が製作会社から提示された配役を拒否した場合には、その作品の撮影期間を契約期間に加算延長することを認めており、ほとんどの俳優はこの慣例のもとでの契約を受け入れていた。しかしながらこの契約形態に疑問を持つ俳優も少数ながら存在し、1930年代にベティ・デイヴィスがワーナー・ブラザースに訴訟を起こしたことがあったが最終的には敗訴している。デ・ハヴィランドは顧問弁護士の助言と全米映画俳優組合の後押しを受けて、1943年8月にワーナー・ブラザースを相手取って出演拒否に対する契約期間延長処置への訴訟を起こした。この訴訟を審理したカリフォルニア州最高裁判所はワーナー・ブラザースの異議を却下し、デ・ハヴィランドの勝訴とする判決を下した(判例 #487, 685)[38]。それまでの製作会社の絶大な権限を弱め、俳優たちにはるかに自由な創作活動の場を与えるというこの判決は、ハリウッド映画界に非常に重要で大きな影響を与えることとなった。デ・ハヴィランドが勝ち得たこの判例は、今でも「デ・ハヴィランド法 (en:De Havilland Law)」として知られている[39]。製作会社を相手取って勝訴したデ・ハヴィランドは、俳優仲間たちから敬意と賞賛の的となった。デ・ハヴィランドと不仲だった妹のジョーン・フォンテインも「ハリウッドはオリヴィアに途方もなく大きな借りがあります」とコメントしている[40]。敗訴したワーナー・ブラザースはデ・ハヴィランドに関する書簡をほかの製作会社に送りつけた。そしてデ・ハヴィランドは「ブラックリスト女優」とみなされて、その後2年間にわたって映画作品に出演することができなかった[38]。
ブロンテ姉妹の生涯を大幅に脚色した映画で、1943年に撮影が終了していたもののワーナー・ブラザースとの訴訟期間中はお蔵入りとなっていた『まごころ』の公開後、デ・ハヴィランドはパラマウント映画と3本の映画に出演する契約を交わした。そしてこれらの映画で演じたさまざまな役柄への演技が、その後のデ・ハヴィランドの女優としてのキャリアを決定付ける先駆けとなった。ジェームズ・エイジーは『暗い鏡 (en:The Dark Mirror)』(1946年)について、デ・ハヴィランドがつねに「もっとも可憐な映画女優の一人だった」としつつ、近年の映画では優れた演技力を持つ女優であることも証明して見せたとしている。そして「その優れた才能」を表に出していない場面でさえも、デ・ハヴィランドの演技力が「思慮深く、内に秘めた細やかな演技を保ち続けている」と指摘した。さらにエイジーは、デ・ハヴィランドの演技が「豊かな才能だけでなく、(デ・ハヴィランドの)心身ともに健全で好ましい内面によるところが大きい。観ているだけで嬉しくなってしまう」と結んでいる[41]。デ・ハヴィランドは『遥かなる我が子』(1946年)のジョゼフィン・ノリス役でアカデミー主演女優賞を受賞し、さらに『女相続人』(1949年)のキャサリン・スローパー役でアカデミー主演女優賞、ニューヨーク映画批評家協会主演女優賞、ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)を受賞した。『蛇の穴』(1948年)のヴァージニア・スチュアート・カニンガム役も高く評価され、アカデミー主演女優賞にノミネートされている。この『蛇の穴』は精神疾患を正面から描いた最初期の映画の一つで、「陰惨な精神病院の実態を暴き出した、ハリウッドの歴史に残る重要な作品」といわれている[12]。デ・ハヴィランドがそれまでの美女役とはまったくかけ離れた役を演じた意欲と、議論が巻き起こるであろう作品に真っ向から取り組んだ姿勢は高く評価された。デ・ハヴィランドはこの『蛇の穴』でニューヨーク映画批評家協会主演女優賞、ナストロ・ダルジェント最優秀外国人女優賞、ナショナル・ボード・オブ・レビュー主演女優賞を受賞している。
デ・ハヴィランドが、ジャーナリストでフランスの雑誌『パリ・マッチ (en:Paris Match)』の編集者ピエール・ギャラント (fr:Pierre Galante) と再婚したのは1955年4月2日である。二人の間には1956年7月18日に一人娘ジゼル・ギャラントが生まれた。この結婚を期にパリへの移住と人生の再設計を決意したと、デ・ハヴィランドの回想録『Every Frenchman Has One』には記されている。1962年から二人は別居していたが、正式に離婚したのは1979年のことだった[65]。
後半生
『恋愛合戦 (en:It's Love I'm After)』(1937年)、『女王エリザベス』(1939年)、『追憶の女』(1942年)、『ふるえて眠れ』(1964年)で共演した女優ベティ・デイヴィスは、その生涯にわたってデ・ハヴィランドの親友だった。ほかにもグロリア・スチュアートは2010年に100歳で死去するまでデ・ハヴィランドの親友だった女優である。2008年4月には、ロサンゼルスで行われた俳優チャールトン・ヘストンの葬儀に参列していた。またこの年には、アカデミー賞の主催団体である映画芸術科学アカデミーが企画したベティ・デイヴィス生誕100周年記念式典にサプライズ・ゲストとして招かれている[66]。
1942年にデ・ハヴィランドとフォンテインは、同時にアカデミー主演女優賞にノミネートされた。対象となったのは、デ・ハヴィランドが『Hold Back the Dawn』のエイミー・ブラウン役、フォンテインがアルフレッド・ヒッチコック監督作品『断崖』のリナ・マクレイドロウ役で、主演女優賞を獲得したのは妹のフォンテインだった。チャールズ・ハイアムはこのときのフォンテインが「女優という仕事に心身を捧げていない自分が賞を獲得したことに対して後ろめたく感じていた」としている。また、ハイアムはこのときのアカデミー授賞式で、主演女優賞を受け取るために歩き出したフォンテインがデ・ハヴィランドからの祝福をあからさまに拒絶したために、デ・ハヴィランドは気分を害して当惑して見えたと記述している。
デ・ハヴィランドは1960年に回顧録『Every Frenchman Has One』を出版した。また、ジョン・リッチフィールドによるとデ・ハヴィランドが自叙伝を執筆中で、2009年9月には初稿を完成させたいとしている[71]。2015年1月のインタビューでデ・ハヴィランドは自叙伝の執筆に取り組んでいると述べた[72]。
このドラマが前述の妹ジョーン・フォンテインと本人の関係にも触れ、そのシーンでデ・ハヴィランドがフォンテインを"bitch"と侮辱したように描かれている。このシーンがデ・ハヴィランドのイメージを大いに傷つけるとして訴訟を起こした。しかし、FXやマーフィー側は過去にデ・ハヴィランドが出演した映画やドラマにおける下品な表現"God damn it"や"son of a bitch"、また彼女の著書の中から"I don't play bitches"という引用を示し対抗している。
Billingsley, Lloyd. Hollywood Party: How Communism Seduced the American Film Industry in the 1930s and 1940s. Ann Arbor, Michigan: University of Michigan Press, 1998, ISBN 978-0-7615-1376-6.
Brown, Gene. Movie Time: A Chronology of Hollywood and the Movie Industry from Its Beginnings to the Present. New York: Macmillan, 1995. ISBN 0-02-860429-6.
De Havilland, Olivia. Every Frenchman Has One. New York: Random House, 1962. ASIN B000WVH9GK.
Fishgall, James. Pieces of Time: The Life of James Stewart. New York: Scribners, 1997. ISBN 978-0-68482-454-3.
Fontaine, Joan. No Bed of Roses: An Autobiography. New York: William Morrow and Company, 1978. ISBN 978-0-68803-344-6.
Freedland, Michael. The Warner Brothers. Edinburgh: Chambers, 1983. ISBN 978-0-24553-827-8.
Gottfried, Martin.Nobody's Fool: The Lives of Danny Kaye. New York: Simon & Schuster, 2002. ISBN 978-0-74324-476-3.
Higham, Charles. Sisters: The Story of Olivia De Haviland and Joan Fontaine. New York: Coward McCann, 1984. ISBN 978-0-69811-268-1.