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ストラスブール (仏 ・英 : Strasbourg [注釈 1] 、アルザス語 : Schdroosburi[注釈 2] 、アレマン語 : Strossburi[注釈 3] 、独 : Straßburg [注釈 4] )は、グラン・テスト地域圏 (旧アルザス地域圏 )の首府 、バ=ラン県 の県庁所在地でもある。2021年1月1日にバ=ラン県 、オ=ラン県 が合併され、名称がfr:Collectivité européenne d'Alsace に変更された。
欧州評議会 や欧州人権裁判所 、またEU 欧州議会 の本会議場を擁し、ベルギー のブリュッセル と共にEUの象徴的な都市の一つとなっている。
概要
フランス 北東部の、ライン川 左岸に位置する。河川港を抱える交通の要衝である。対岸にはドイツの都市ケール が存在するが、シェンゲン協定 によってパスポートチェック無しで自由に行き来できる。
ストラスブール(シュトラースブルク)の語源はアルザス語 で「街道の街」であり、交通の要衝として栄える。ライン川にフランス最大の河川港をもち、交通の便の良さから商工業が盛んである。1998年から当地のクレディ・ミュチュエル (フランス語版 、英語版 ) が商工信用銀行 (フランス語版 、英語版 ) を支配している[注釈 5] 。
かつてはドイツ の神聖ローマ帝国 に属したが、近世 初頭にドイツの混乱に乗じてフランス王国 が侵略して併合する。
以降、ドイツとフランスが領有権を争った土地として有名である。言語や文化の上ではドイツ系であるといえるが、下記のように1944年 以降、政治的にはフランスに属する。神聖ローマ帝国 の領地となってから20世紀まで、アルザスは戦争の度に蹂躙された。
現在はフランス国立行政学院 (ENA, エナ)の校舎もあり、欧州のエリート が当地で養成される。また、近郊の村エンツハイム にはスポーツウェア等で知られるルコックスポルティフ の、同様に近郊のモルスアイム にはブガッティ・オトモビル の各本社機能がそれぞれ置かれている。
グーテンベルク やカルヴァン 、ゲーテ 、モーツァルト 、パストゥール なども人生の一時期をこの地で過ごした。その中には現代史に欠かせないユダヤ銀行家、マーク・ユージン・マイヤー(Marc Eugene Meyer 1842-1925)もいる。マークの祖父はユダヤ教会役員会のラビ書記だった。自身は1859年17歳のときにカリフォルニア へ移住し、ロサンゼルスのデパート所有者となった。それからニューヨークでラザード の共同経営者となった[2] 。その息子のユージン・マイヤー もラザードでキャリアを積み、連邦準備制度 理事会議長と初代世界銀行総裁 を務め、『ワシントン・ポスト 』を買収した。
もっと永く過ごしたマークの同時代人で、ストラスブールの立場を理解するのに知っておくべき女性がいる。メラニー・ド・プルタレス は政治も担った。シュテファニー・フォン・ヴェデル(Stéphanie von Wedel , 1852-1937)はスウェーデン のヤーコプ・ハミルトン が父である。ストックホルム駐在ドイツ帝国 大使のカール・フォン・ヴェデル と結婚した。1907年夫がラインラント総督へ就任したのを機に、ストラスブールへ定住した。身体障害児の養護施設シュテファニー・ホスピスをつくらせるなどの社会貢献をなした。
歴史
ローマ人が城砦を築き、当時は「アルゲントラトゥム 」ArgentoratumないしArgentorateとよばれた。この呼称は74年 のマイルストーン に初めて現れる。今日の名称の基になったStrateburgum、Stratisburgoは6世紀 末以後の登場となる[3] 。ローマ帝国 がライン川をゲルマニア との国境としていたので、この地はローマ領であった。紀元前12年 に築かれたと思われる城砦を中心に集落が形成されたこの町は、交通の要衝ゆえに発達したが、352年 にアレマン人 によって襲撃され、451年 にはフン族 の来襲を受けてローマの防衛・統治機構は破壊された[4] 。
フランク族 によって再建された。842年 に ルートヴィヒ2世 (ドイツ王)とシャルル1世 (禿頭王)がこの地で誓ったストラスブールの誓い により843年 、ロタリンギア (中フランク王国)に帰属したが、870年 のメルセン条約 では東フランク王国 に帰属し、後に神聖ローマ帝国 に属した。10世紀 末には司教の支配する重要商業地となった[3] 。「司教都市」として発展したが、市の統治の一部はミニステリアーレ に委ねられた。『トリスタンとイゾルデ 』を著わしたゴットフリート・フォン・シュトラースブルク はミニステリアーレであったと思われる[5] 。「ストラスブールの第二都市法は、十二人の市参事会員 consules civitatis は、ミニステリアーレ並びに市民 cives から採用されなければならないと規定していた」[6] 。
毛織物業も発展成立し、交通の要衝でもあったシュトラースブルクは大いに発展する。
1262年 3月8日「ストラスブールの市民層が彼らの司教ヴァルター・フォン・ゲロルトゼック(Walter von Geroldseck)を撃破し、その結果自主性をかちとる」ことに成功したが、その都市軍の指揮官の一人エレンハルトは、「都市史と帝国史とが同時に現存する」(H. シュミット)高度の歴史作品を著わしている[7] 。
1349年 、在住ユダヤ人 が差別に耐えかねて井戸に毒を流し、多数の市民を殺した[8] 。科刑は内容がまちまちであった。
1348年 のペスト 流行以降ユダヤ人は多くの都市から追放されたが、この都市からユダヤ人が追放されたのは1387年 のことである[9] 。
「広大な農村地域を取得することができ、かつ確保することができ」、「活発な都市圏」を形成し、神聖ローマ「帝国の枠の中で都市国家をさせることのできた」諸都市の一つであり、反都市的な貴族や騎士に対抗して1381年 にフランクフルト の主導の下マインツ 、ヴォルムス 等とライン都市同盟 を結成した[10] 。
中世末期、ツンフト が「都市統治権への参加を戦いとった多数の都市」の一つであるが、「1404年 、ボヘミア 及びティロール(チロル )出身の48人の毛皮加工職人が職人兄弟団を結成していた[11] 。
15世紀 の人口はほぼ18000人、1ヘクタール当たりの住民数は89人であった[12] 。
「重要な印刷業者都市として人文主義 の中心地にもなる」[13] 。
「(中世末期の)都市文化で眼につく宗教生活上の現象の一つ」であるベギン会 の運動は、13世紀 前半にはこの都市にも及んだ[14] 。
1518年には踊りのペスト (ダンシングマニア )が流行した。
ルネサンス 期の宗教改革 では、はやくも1523年 にプロテスタント をうけいれ、市内にはカトリックとプロテスタント の教会が並んで建てられるようになった。1530年 にはチューリヒ 及びベルン とカルヴァン主義 の同盟を締結した。1576年 、当市開催の射撃大会にチューリヒからは2チームが参加したが、チューリヒ市は市民54名を観客として派遣した。彼らは往路の船旅で、普段は3,4日かかる行程を一日で走破した。これは、周辺の反宗教改革 の活発下にあってストラスブールとチューリヒ両市の同盟関係の確認という意味があった[15] 。
17世紀 、フランス 王ルイ14世 の膨張政策が自然国境論のもとこの地域に触手を伸ばし[16] 、三十年戦争 でドイツ圏のエルザス=ロートリンゲン地方(アルザス=ロレーヌ 地方)を獲得すると、1697年 に大同盟戦争 の講和条約 であるレイスウェイク条約 によりフランス王国の領域に入り、シュトラースブルクはフランス語風にストラスブールと呼ばれるようになる。
18世紀末、セルベール(フランス語版 )(英語版 ) がユダヤ人総代として活躍した。
1871年、普仏戦争 でプロイセン が勝利すると、アルザス=ロレーヌ地方はドイツ帝国 領に復帰した。1875年、インドシナ銀行 ができるときにストラスブールの個人銀行が参加した。
1919年 、第一次世界大戦 でフランスが勝利し同地域は再びフランス領となった。
第二次世界大戦 でも独仏戦の戦火にあい、1940年 にドイツが自国領とするが、1944年に連合国が奪還している。第二次大戦後は「ヨーロッパの歴史を象徴する都市」として、欧州の主要な国際機関が置かれている。
1988年 、イル川の中洲にある旧市街が「ストラスブールのグラン・ディル 」としてユネスコ の世界遺産 に登録された。
気候
ケッペンの気候区分 では西岸海洋性気候 (Cfb)に属する。
ストラスブール(ストラスブール国際空港 、標高150m)1981–2010年(極値1924年–)の気候
月
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
年
最高気温記録 °C (°F )
17.5 (63.5)
21.1 (70)
26.3 (79.3)
30.0 (86)
33.8 (92.8)
38.8 (101.8)
38.9 (102)
38.7 (101.7)
33.4 (92.1)
29.1 (84.4)
22.1 (71.8)
18.3 (64.9)
38.9 (102)
平均最高気温 °C (°F )
4.5 (40.1)
6.4 (43.5)
11.4 (52.5)
15.7 (60.3)
20.2 (68.4)
23.4 (74.1)
25.7 (78.3)
25.4 (77.7)
21.0 (69.8)
15.3 (59.5)
8.8 (47.8)
5.2 (41.4)
15.3 (59.5)
日平均気温 °C (°F )
1.8 (35.2)
2.9 (37.2)
6.9 (44.4)
10.5 (50.9)
15.0 (59)
18.1 (64.6)
20.1 (68.2)
19.7 (67.5)
15.8 (60.4)
11.2 (52.2)
5.8 (42.4)
2.8 (37)
10.9 (51.6)
平均最低気温 °C (°F )
−0.8 (30.6)
−0.6 (30.9)
2.5 (36.5)
5.2 (41.4)
9.8 (49.6)
12.8 (55)
14.5 (58.1)
14.1 (57.4)
10.6 (51.1)
7.1 (44.8)
2.8 (37)
0.3 (32.5)
6.6 (43.9)
最低気温記録 °C (°F )
−23.6 (−10.5)
−22.3 (−8.1)
−16.7 (1.9)
−5.6 (21.9)
−2.4 (27.7)
1.1 (34)
4.9 (40.8)
4.8 (40.6)
−1.3 (29.7)
−7.6 (18.3)
−10.8 (12.6)
−23.4 (−10.1)
−23.6 (−10.5)
降水量 mm (inch)
32.2 (1.268)
34.5 (1.358)
42.8 (1.685)
45.9 (1.807)
81.9 (3.224)
71.6 (2.819)
72.7 (2.862)
61.4 (2.417)
63.5 (2.5)
61.5 (2.421)
47.0 (1.85)
50.0 (1.969)
665.0 (26.181)
平均降水日数 (≥1.0 mm)
8.4
8.1
9.1
9.2
11.5
10.7
10.8
9.9
8.6
9.5
9.3
9.8
114.9
平均降雪日数
7.8
6.7
4.0
1.5
0.1
0.0
0.0
0.0
0.0
0.0
3.4
6.3
29.8
% 湿度
86
82
76
72
73
74
72
76
80
85
86
86
79
平均月間日照時間
58.1
83.8
134.8
180.0
202.5
223.8
228.6
219.6
164.5
98.7
55.3
43.1
1,692.7
出典1:Meteo France [17] [18]
出典2:Infoclimat.fr (relative humidity 1961–1990)[19]
人口統計
2017年時点のコミューンの人口は280966人で、2012年当時の人口より2.4%増加した[20] 。
1962年
1968年
1975年
1982年
1990年
1999年
2006年
2011年
2017年
228971
249496
253384
248712
252338
264115
272975
272222
280966
参照元:1962年から1999年までは複数コミューンに住所登録をする者の重複分を除いたもの。それ以降は当該コミューンの人口統計によるもの。1999年までEHESS/Cassini[21] 、2006年以降INSEE [22] [23]
観光
ストラスブール大聖堂
グーテンベルクの彫像がある広場
都心にあるカテドラル (ストラスブール大聖堂)[24] 、アルザスの伝統家屋が密集したプチット=フランス地区がユネスコ の世界遺産 に登録されている。イル川 の中洲である周囲2kmほどの島が都心であり、観光スポットもショッピングスポットもこの中洲に集中している。
カテドラルは地元産の砂岩 で作られているため外観がバラ色で、地盤が弱いため尖塔が片方しかないのが特徴である。また、聖堂内には人の人生を表現したからくり時計「天文時計 」が設置されている。
プチット=フランス地区はもとはなめし革 職人の居住地区だったもので、小水路が入り組んだところにアルザス伝統の木組み (コロンバージュ )の家が密集している。このプチット=フランス地区内には閘門 が設けられている。ストラスブールはイル川の水運で栄えた水の都であり、観光客向けに水上バス も運航されている。水上バスは都心を出発してプチット=フランス地区の閘門を水路を調整しながら通過し、イル川河畔の欧州議会付近まで周遊する。
その他、市内にはいくつかの美術館が存在する。郊外では、欧州議会 の会議場も見所の一つとなっている。通常時は欧州議会の建物へ入ることはできないので、外から建物を見学するだけになる。年に何度か、欧州議会公開デーがあり、そのときは会議場内部を見学することができる。欧州議会に隣接して、欧州評議会 、欧州人権裁判所 もある。欧州議会・人権裁判所は非常に凝った現代建築である。
観光で忘れてはならないのが、ストラスブール市の鳥、コウノトリ(シュバシコウ )である。シュバシコウはストラスブールのイメージキャラクター として至るところで登場し、都心部の土産物屋ではシュバシコウのぬいぐるみなど、多数のシュバシコウ関係のグッズが売られている。ストラスブール土産と言えばシュバシコウというくらい定着しているが、実際は野生のシュバシコウはほぼ絶滅しており、市内では滅多に見ることはできない。市東部にあるオランジェリー公園内にコウノトリ飼育センターがあり、多数のシュバシコウが飼育されている。コウノトリ飼育センターは動物園も兼ねており、シュバシコウ以外にもクジャクなど他の鳥も見学できる。なお、オランジェリー公園は市内最大の公園であり、コウノトリ飼育センターだけではなく、園内に木組み(コロンバージュ)の一軒家でミシュラン一つ星フレンチレストラン、ビュルイーゼル(Buerehiesel)もある。
ストラスブール大聖堂前のクリスマスデコレーション
16世紀から続くヨーロッパ最大級にして、最古のクリスマスマーケット、マルシェ・ドゥ・ノエル(アルザス語:en:Christkindelsmärik (キリストの子マーケット))は、11月下旬から12月末まで約1ヶ月間開催され、数百万人の観光客が毎年世界中から訪れる。そのため、キャピタル・ドゥ・ノエルの異名を持つ。CNNトラベルで3年連続世界一のクリスマスマーケットにも選ばれている。
交通
「街道の街」の名の通り、鉄道・道路ともに主要な幹線が交差する要衝となっている。ストラスブールはパリから真東へ約500kmに位置しており、フランスの東の玄関口としての役割が大きい。南北方向へは、ベルギーのブリュッセルからルクセンブルク を経て、アルザス 地方、スイスからイタリア へ通じるルートの経路上にある。東はすぐにドイツであり、バーデン=バーデン やカールスルーエ 、シュトゥットガルト に近い。パリからドイツ南部(ミュンヘン など)やオーストリア を結ぶルート、A4 の経由点でもあり、東西・南北の国際幹線ルートの交点に位置している。
鉄道
主要鉄道駅は、中心市街地そばのストラスブール駅 。
2007年6月にTGV東ヨーロッパ線 が部分開業し、パリ-ストラスブール間は2時間20分で結ばれた。さらに2016年の東ヨーロッパ線全線開業と共に所要時間が短縮され、パリ東駅とストラスブール間のTGVは直通1時間50分で結ばれている。
ストラスブール自体は都市圏人口45万の中規模都市だが、それでもパリからTGV路線が建設されるのは、ストラスブールを中継して近隣の主要都市への所要時間短縮が期待できるためである。これは、フランスのみならずルクセンブルクやEUが建設資金を拠出していることからも明らかである。パリから来たTGVの一部は、ストラスブールからドイツ方面(シュトゥットガルト、フランクフルト )への直通TGVとなる。(スイス方面のTGVも当初はストラスブール経由であったが、LGVライン-ローヌ線 の開通時からストラスブールを経由しなくなった。)将来はドイツ国内の路線も整備され、オーストリア 、ハンガリー へ至る高速鉄道 路線を形成する予定である。
航空
近郊のエンツハイム にストラスブール国際空港 があり、フランス国内ならびにヨーロッパ主要都市に就航している。なお、空港から中央駅までは鉄道のnavette(シャトル)が通じており、日中の便数は1時間当たり数本、所要時間は最速7分である。2013年にパリ・シャルル・ド・ゴール国際空港 とストラスブール国際空港間のエールフランス 便は廃止され、現在ではTGVに航空便名を付与して、フランス国鉄との共同運航という形を取っている。このため、日本からシャルル・ド・ゴール国際空港経由でストラスブールに向かう場合には、実際には空港ではなく中央駅に到着することになる。
なお、フランクフルト空港 からはルフトハンザドイツ航空 の連絡バスがストラスブール駅前まで運行されている。このバスは航空機の代替便として走っているので、ルフトハンザ航空の飛行機の乗り継ぎ便として利用できる。日本からルフトハンザ航空や全日本空輸 (ANA)などスターアライアンス 系航空会社でフランクフルト空港経由でストラスブール入りする場合は、このルートが便利である。
市内交通
トラム
1994年 よりトラム (LRT )が運行されている。2007年5月現在、4系統24kmの路線網となっている。このトラムは非常に斬新なデザインであり、トラム導入とともに都心の歩行者専用ゾーン化・トラムの停留所設備の整備と一体化した景観整備なども行い、トラム導入を軸とした都心再開発を行った。トラム導入後、公共交通の乗客数は大幅に増加し、なおかつ再開発が非常に高く評価され、交通まちづくりの先進事例として評価が高い。遠く日本からも都市行政関係者などが多数ストラスブールを視察している。欧州議会 等が存在する街の特徴などから「ユーロトラム 」というニックネーム が車両に与えられている。
また、市内交通はトラムの他にバスがある。トラムとバスは1時間以内なら1枚の切符で乗り継ぎが可能であり、トラムとバスが一体となったネットワークで運営されている。トラム・市バスともに第3セクターのストラスブール交通会社(CTS)が運営しており、CTSは他に空港連絡バスおよびバ=ラン県内中距離バス(Resaux67)も運営している。
2007年秋にはトラムが延伸され、2011年 を目処にトラムとフランス国鉄線の直通運転が開始され、ストラスブール空港から都心への直通トラムが運行される予定である。
自転車
ストラスブールは、1970年代より一貫して自転車政策を推進してきた街である。現在では自転車道などの自転車空間のネットワークは、ストラスブール大都市共同体全体で500kmを超え、交通モードに占める自転車の割合(分担率)は、ストラスブール市中心部で14%、ストラスブール大都市共同体全体で8%となっており、フランスで最も自転車の利用が普及している都市といえる。また、レンタサイクル であるヴェロップのサービスも提供されている。
水運
ライン川にフランス最大の河川港を抱えている。ライン川は今でもヨーロッパの物流の大動脈であり、ストラスブール港はライン川におけるフランスの玄関口を果たす重要な港である。港周辺には工場が集積しており、ストラスブール経済の重要な基盤である。また、ストラスブールからパリ方面やスイス 方面へ運河 も整備されている。なお、旅客に関しては鉄道 ・自動車 の時代であり、一部の観光船を除いて旅客船は就航していない。
スポーツ
サッカー
ストラスブールを本拠地 とし、リーグ・アン に所属するプロサッカー クラブであるRCストラスブール が存在する。クラブは1978-79シーズンに1度、リーグ優勝を果たしている。
ギャラリー
「バラージュ・ヴォーバン」から望む、前方の中世の橋「ポン・クヴェール」及び遠方のストラスブール大聖堂
姉妹都市・提携都市
出身者
脚注
注釈
出典
^ 篠永宣孝『フランス帝国主義と中国』春風社、2008年、330頁。
^ 洲崎惠三、「トーマス・マンとアグニス・E・マイアー(1) 」 『研究紀要』 2011年 17巻 p.81-98, doi :10.20843/00000285 , NCID AN10480238
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^ Lexikon des Mittelalters . Bd. VIII. München: LexMA Verlag 1997 (ISBN 3-89659-908-9 ), Sp. 213.
^ Lexikon des Mittelalters . Bd. VIII. München: LexMA Verlag 1997 (ISBN 3-89659-908-9 ), Sp. 214-215.
^ エーディト・エネン『ヨーロッパの中世都市』(佐々木克巳訳)岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X ) 、164頁。
^ エーディト・エネン『ヨーロッパの中世都市』(佐々木克巳訳)岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X ) 、304頁。
^ August Stöber, Die Sagen des Elsasses , St. Gallen, 1858, p.486.
^ エーディト・エネン『ヨーロッパの中世都市』(佐々木克巳訳)岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X ) 、297頁。
^ エーディト・エネン『ヨーロッパの中世都市』(佐々木克巳訳)岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X ) 、238-239頁。
^ エーディト・エネン『ヨーロッパの中世都市』(佐々木克巳訳)岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X ) 、287、289頁。
^ エーディト・エネン『ヨーロッパの中世都市』(佐々木克巳訳)岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X ) 、276、278頁。
^ エーディト・エネン『ヨーロッパの中世都市』(佐々木克巳訳)岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X ) 、306頁。
^ エーディト・エネン『ヨーロッパの中世都市』(佐々木克巳訳)岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X ) 、299-300頁。
^ ヨーハン・フィッシャルト『チューリヒの幸福の船 蚤退治』(大澤峯雄・精園修三訳)、同学社、1998年(ISBN 4-8102-0120-1 )、303頁。
^ 「1681年のルイ14世のシュトラスブルク占領に対して神聖ローマ帝国のとった無為無能への悲憤慷慨」を吐露した歌に、「シュトラスブルクの陥落(1681年)」と題する歌がある。武田昭『歴史的にみた――ドイツ民謡』東洋出版 1979年1月、267-269頁。なお、兵隊の集合する軍都ストラスブールを歌った有名な歌に「ああ シュトラースブルク / うるわし まち」(O Straßburg, o Straßburg )がある。原俊彦・滝本裕造編『ドイツ民謡選』三修社1965年(1980年第7版)66-67頁にドイツ語・日本語対訳詞と曲、110頁に解説。- 武田昭『歴史的にみた――ドイツ民謡』東洋出版 1979年1月、276-278頁。また、『少年の魔法の角笛』所収の、脱走後処刑される「スイス人」を歌った歌は、「シュトラスブルクの堡塁の上で / 私の悲しみは始まった。」と始まる。
^ “Climatological Information for Strasbourg, France ”. Meteo France (2019年8月7日). 2019年9月27日時点のオリジナル よりアーカイブ。2022年1月28日 閲覧。
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^ http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=36842
^ https://www.insee.fr/fr/statistiques/4269674?geo=COM-67482
^ http://www.insee.fr
^ ゲーテ は「ドイツの建築」(Von deutscher Baukunst )と題する評論(1772年公刊)において、13・14世紀転換期にこの大聖堂の建築に関与したエルヴィン・フォン・シュタインバハへの讃歌を歌っている。菊池栄一 訳「評論集」〔菊池栄一・富士川英郎 ・大山定一 ・伊藤武雄 訳『ゲーテ全集 全12巻 第11巻』人文書院 1961年、18-26、404-405頁。〕
関連項目
外部リンク
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