トーマス・オマリー
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この項目では、元プロ野球選手について説明しています。ディズニー映画に登場する猫については「おしゃれキャット#ネコ」をご覧ください。 |
トーマス・オマリー Thomas O'Malley
| 基本情報 |
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国籍 |
アメリカ合衆国 |
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出身地 |
ニュージャージー州オレンジ |
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生年月日 |
(1960-12-25) 1960年12月25日(63歳) |
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身長 体重 |
6' 1" =約185.4 cm 195 lb =約88.5 kg |
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選手情報 |
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投球・打席 |
右投左打 |
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ポジション |
一塁手、三塁手 |
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プロ入り |
1979年 MLBドラフト16巡目 |
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初出場 |
MLB / 1982年5月8日 NPB / 1991年4月6日 |
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最終出場 |
MLB / 1990年10月3日 NPB / 1996年10月9日 |
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経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
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選手歴 |
|
監督・コーチ歴 |
- ニューアーク・ベアーズ (1998 - 2001)
- 阪神タイガース (2002 - 2003, 2014 - 2016)
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トーマス・パトリック・オマリー(Thomas Patrick O'Malley, 1960年12月25日 - )は、アメリカ合衆国ニュージャージー州出身の元プロ野球選手(内野手、右投左打)、監督、コーチ。アメリカ球界での登録名はトム・オマリー(Tom O'Malley)。アイルランド系アメリカ人である。
経歴
MLB時代
1982年5月8日にサンフランシスコ・ジャイアンツでメジャーデビューを果たし、以後9年間プレーするもののメジャーには定着できず、以後、シカゴ・ホワイトソックス - ボルチモア・オリオールズ - テキサス・レンジャーズ - モントリオール・エクスポズ(現:ワシントン・ナショナルズ) - ニューヨーク・メッツと複数の球団を渡り歩くも、1983年のシーズンを除いてレギュラー選手としての成績は残せなかった。
阪神時代
1991年に阪神タイガースに入団し、来日。初の春季キャンプでは川上哲治から『今年の外国人選手では一番すばらしい』と評価される。
ビジターの試合で球団カラーの黒ではなくグレーのアンダーシャツを着ていた。これはアメリカ時代のシャツをそのまま愛用していたためである。また、ベンチで帽子を前後逆に被る、メジャーリーグにある『逆転のおまじない』をベンチに持ち込んだ。翌1992年から亀山努らナインがオマリーに倣って帽子を逆にする姿が恒例となった。
1992年、前年オフに大洋を解雇されたジム・パチョレックが阪神に入団する。このパチョレックとのコンビで、新庄剛志、亀山努ら若手選手と共に低迷していた阪神の2位躍進に貢献。同年はパチョレックの入団に伴い三塁に転向し、ゴールデングラブ賞を獲得した。
1993年は、オリックスから松永浩美が加入し再び一塁にコンバートされた。オールスターゲーム第2戦でMVPを獲得した。ヒーローインタビューの時の『ハンシンファンワ、イチバンヤァー!(阪神ファンは一番やー!)』を決まり文句とした。また、オマリーと共に在籍した外国人選手のパチョレック(同年退団)と郭李建夫が好調の時、当時の日本野球機構の規定では外国人選手が2人までしか出場できないことから、3人の姓の頭文字をとり『(阪神)PKO問題』と報じられていた[注 1]。
さらに同年は、首位打者のタイトルを獲得した[2]。タイトル争いに際しては、横浜のロバート・ローズと最終戦まで競り合い、執念を見せた。10月20日終了時点で、ローズは2試合残して480打数157安打で打率.3271、オマリーは1試合残して432打数141安打で打率.3264であり、10月21日に阪神が全日程を終了し、10月22日にダブルヘッダーで横浜が全日程を終了する予定だった。オマリーは最終戦、1打席目にヒットを放って打率.3279とローズを逆転したが、試合の日程上再逆転の可能性もあったため、ベンチに退かずに第2打席も登場して意表を突くセーフティバントを決めて打率を.3294に伸ばしてベンチに退いた。翌日、横浜は最終ダブルヘッダーを迎え、1試合目にローズは4打数1安打で打率を.3264に下げ、2試合目は再逆転を狙って1番打者で登場するも、2打席凡退して再逆転がほぼ不可能になって(残り3打席連続安打でも.3292で逆転不可能)ベンチに退いたため、オマリーが首位打者を獲得した。OPSもリーグ一位だった。
しかし、長打力不足であることや守備が緩慢だったことを理由に球団の戦力構想から外れ、1994年オフに自由契約となった[3]。オマリー自身も、オールスターゲームで当時巨人監督の長嶋茂雄に対し「ライネンキョジン(来年、巨人)」と移籍をアピールするなど、阪神のフロントに不信感を募らせていた。
阪神時代は神戸の自宅に当時100万円相当のFAX機器を設置し、アメリカに住む両親と毎日のように連絡を取り合っていた[4]。
阪神球団はオマリーをオリックスへ金銭トレードに出す予定でいたが、本人の強い希望で12月17日にセリーグのヤクルトスワローズに移籍することが決まった[5]。
ヤクルト時代
1995年は打率.302、打点87、自己最多の31本塁打を記録し[6]、チームのセントラル・リーグ優勝に大きく貢献した。ヒーローインタビューの決め台詞も「ヤクルトファンノ、オウエン、クダサーイ!(ヤクルトファンの応援ください)」に変わった。故意四球をシーズン23個を記録したがこれは球団記録となった[7]。
オリックスとの日本シリーズでもMVPに輝き、チームの日本一にも大きく貢献[6]。この時の小林宏投手との14球にわたる対戦は、「小林-オマリーの14球」として同年日本シリーズの名場面として語り継がれている。同年のシーズンMVPを獲得。日本プロ野球史上外国人選手としては初の、ペナントレース・日本シリーズ・オールスターゲームの3つでMVPを獲得した選手となった。
1996年、外国人選手初の6年連続打率3割を達成しキャリアハイの打点を記録したが、同年オフに監督の野村克也が巨人を退団した落合博満の獲得を強く望んだため(落合の入団は日本ハムファイターズとの争奪戦に敗れて実現せず)、契約上の問題が生じたとして10月24日にヤクルト退団が発表された。その後西武ライオンズが獲得調査との報道があったが実現せず、テキサス・レンジャーズに招待選手としてキャンプ参加するが解雇されそのまま現役を引退。
現役引退後
1998年から2001年までアメリカ独立リーグのニューアーク・ベアーズ初代監督を務めた。1年目には、選手としても2試合に出場している[8]。
2001年、阪神春季キャンプにヤクルト時代の監督でもあった野村を表敬訪問。その際に外国人選手へのアドバイスが高く評価されて翌年の阪神コーチ就任が濃厚となるが、野村の退団に伴い白紙に。しかし、その際の口約束のためにベアーズ監督を辞任していたことから、翌2002年の春季キャンプの臨時打撃コーチとして阪神に復帰。そのキャンプ中の熱心な指導が監督の星野仙一にも評価され、そのまま特命コーチとしてシーズン中もチームに帯同したが、試合ではスコアラー登録でベンチ入りしたため、ジャージを着用していた。2002年から2003年までの特命コーチ時代はジョージ・アリアス、トレイ・ムーア、ジェフ・ウィリアムス、ジェロッド・リガンらを指導するなど外国人選手の支えとなり、2003年のリーグ優勝に貢献した。岡田彰布の監督就任によりコーチを退任。
2004年、阪神の駐米スカウトに就任。同年10月、ライブドアベースボールの監督就任を要請され受諾したが、同球団の日本プロフェッショナル野球組織への参入が無くなったため白紙になった。その後も阪神の駐米スカウトとして活動したが、ルー・フォード、ケビン・メンチと獲得に携わった外国人選手が結果を残せなかったため[9]、2009年11月、阪神との契約を解除された。
阪神スカウト解任後は、プロ野球交渉代理人アーン・テレムの事務所に所属し、日本人選手のメジャーリーグ進出への橋渡し役として活躍していた[10]。
2013年10月に、阪神の一軍打撃コーチ補佐として、9年振りに現場へ復帰した[11]。ただし、2015年までは、コーチ枠の関係でユニフォームは着用せず、トレーナーとしてジャージを着用してベンチ入りをしていた。2016年10月27日に今季限りのコーチ契約であることを伝えられた[12]。
2018年と2019年、アメリカの高校ソフトボールチームでコーチを務めた[13]。
選手としての特徴
非常に選球眼が優れ、また投手の配球を読むことに長けた選手で、外国人選手初の6年連続打率3割を達成するなど、打撃面では安定した好成績を残した。しかし、守備中にバントシフトをとらないなど怠慢な姿勢も見られた。長嶋茂雄に憧れており、小さなヘルメットを浅く被っていた(長嶋のように、スイングを行った際メットが飛ぶようにするため)。また、よくガムを噛みながらオープンスタンスで打席に立っていた。
詳細情報
年度別打撃成績
年
度 |
球
団 |
試
合 |
打
席 |
打
数 |
得
点 |
安
打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁
打 |
打
点 |
盗
塁 |
盗 塁 死 |
犠
打 |
犠
飛 |
四
球 |
敬
遠 |
死
球 |
三
振 |
併 殺 打 |
打
率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S
|
1982
|
SF
|
92 |
327 |
291 |
26 |
80 |
12 |
4 |
2 |
106 |
27 |
0 |
3 |
1 |
1 |
33 |
9 |
1 |
39 |
11 |
.275 |
.350 |
.364 |
.714
|
1983
|
135 |
473 |
410 |
40 |
106 |
16 |
1 |
5 |
139 |
45 |
2 |
4 |
4 |
3 |
52 |
4 |
4 |
47 |
12 |
.259 |
.345 |
.339 |
.684
|
1984
|
13 |
27 |
25 |
2 |
3 |
0 |
0 |
0 |
3 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
0 |
2 |
0 |
.120 |
.185 |
.120 |
.305
|
CHW
|
12 |
16 |
16 |
0 |
2 |
0 |
0 |
0 |
2 |
3 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
5 |
1 |
.125 |
.125 |
.125 |
.250
|
'84計
|
25 |
43 |
41 |
2 |
5 |
0 |
0 |
0 |
5 |
3 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
0 |
7 |
1 |
.122 |
.163 |
.122 |
.285
|
1985
|
BAL
|
8 |
14 |
14 |
1 |
1 |
0 |
0 |
1 |
4 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
1 |
.071 |
.071 |
.286 |
.357
|
1986
|
56 |
200 |
181 |
19 |
46 |
9 |
0 |
1 |
58 |
18 |
0 |
1 |
1 |
1 |
17 |
1 |
0 |
21 |
4 |
.254 |
.317 |
.320 |
.637
|
1987
|
TEX
|
45 |
134 |
117 |
10 |
32 |
8 |
0 |
1 |
43 |
12 |
0 |
0 |
0 |
2 |
15 |
1 |
0 |
9 |
7 |
.274 |
.351 |
.368 |
.718
|
1988
|
MON
|
14 |
31 |
27 |
3 |
7 |
0 |
0 |
0 |
7 |
2 |
0 |
0 |
0 |
1 |
3 |
1 |
0 |
4 |
0 |
.259 |
.323 |
.259 |
.582
|
1989
|
NYM
|
9 |
11 |
11 |
2 |
6 |
2 |
0 |
0 |
8 |
8 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
.545 |
.545 |
.727 |
1.273
|
1990
|
82 |
133 |
121 |
14 |
27 |
7 |
0 |
3 |
43 |
14 |
0 |
0 |
0 |
1 |
11 |
1 |
0 |
20 |
1 |
.223 |
.286 |
.355 |
.641
|
1991
|
阪神
|
130 |
537 |
476 |
61 |
146 |
29 |
0 |
21 |
238 |
81 |
0 |
1 |
0 |
2 |
57 |
1 |
2 |
83 |
10 |
.307 |
.382 |
.500 |
.882
|
1992
|
111 |
478 |
381 |
55 |
124 |
30 |
2 |
15 |
203 |
62 |
3 |
1 |
0 |
1 |
94 |
7 |
2 |
70 |
8 |
.325 |
.460 |
.533 |
.993
|
1993
|
125 |
515 |
434 |
60 |
143 |
32 |
1 |
23 |
246 |
87 |
1 |
1 |
0 |
4 |
75 |
10 |
2 |
71 |
10 |
.329 |
.427 |
.567 |
.994
|
1994
|
124 |
524 |
430 |
61 |
135 |
18 |
2 |
15 |
202 |
74 |
2 |
1 |
0 |
4 |
89 |
17 |
1 |
74 |
15 |
.314 |
.429 |
.470 |
.899
|
1995
|
ヤクルト
|
125 |
524 |
421 |
83 |
127 |
20 |
0 |
31 |
240 |
87 |
6 |
6 |
0 |
5 |
96 |
23 |
2 |
57 |
8 |
.302 |
.429 |
.570 |
.999
|
1996
|
127 |
541 |
461 |
56 |
145 |
23 |
0 |
18 |
222 |
97 |
3 |
4 |
0 |
5 |
74 |
8 |
1 |
70 |
19 |
.315 |
.407 |
.482 |
.888
|
MLB:9年
|
466 |
1366 |
1213 |
117 |
310 |
54 |
5 |
13 |
413 |
131 |
2 |
8 |
6 |
9 |
133 |
17 |
5 |
151 |
37 |
.256 |
.329 |
.340 |
.670
|
NPB:6年
|
742 |
3119 |
2603 |
376 |
820 |
152 |
5 |
123 |
1351 |
488 |
15 |
14 |
0 |
21 |
485 |
66 |
10 |
425 |
70 |
.315 |
.422 |
.519 |
.941
|
年度別監督成績
- アメリカ独立リーグ
年度 |
チーム |
前・後期 |
試合 |
勝利 |
敗戦 |
引分 |
勝率 |
順位
|
1998
|
ニューアーク・ベアーズ
|
前期 |
50 |
18 |
32 |
0 |
.360 |
5位
|
後期 |
50 |
17 |
33 |
0 |
.340 |
6位
|
1999
|
前期 |
59 |
24 |
35 |
0 |
.406 |
5位
|
後期 |
60 |
31 |
29 |
0 |
.516 |
3位
|
2000
|
前期 |
70 |
38 |
32 |
0 |
.542 |
3位
|
後期 |
70 |
36 |
34 |
0 |
.514 |
4位
|
2001
|
前期 |
63 |
38 |
25 |
0 |
.603 |
1位
|
後期 |
63 |
37 |
26 |
0 |
.587 |
2位
|
タイトル
- NPB
表彰
- NPB
記録
- NPB初記録
- NPB節目の記録
- NPBその他の記録
- 4年連続最高出塁率(1992年 - 1995年) ※史上2人目[注 2]
- 6年連続打率3割(1991年 - 1996年) ※外国人選手史上初
- オールスターゲーム出場:3回 (1993年、1994年、1996年)
背番号
- 35 (1982年 - 1984年途中)
- 26 (1984年途中 - 同年終了)
- 17 (1985年 - 1986年)
- 41 (1987年)
- 23 (1988年)
- 27 (1989年 - 1990年)
- 1 (1991年 - 1994年)
- 3 (1995年 - 1996年)
- 89 (2002年 - 2003年)
- 80 (2014年 - 2016年)
関連情報
- 90年代にCD発表。1番は日本語、2番は英語。
- その個性的な歌唱は強烈に聴く者に強いインパクトを与え、山下達郎や星野源が自身の担当ラジオ番組でその高いメッセージ性を伝えている。
- この系譜を受け継いで、長年伝え続けているのが山陰放送アナウンサーの桑本充悦(現在は桑本みつよし名義で活動)である。桑本が熱烈なタイガースファンであり、シーズンオフには自身の担当番組あさスタで、そのオマリーの絶妙な歌唱を流し、タイガース選手、監督、コーチそして阪神ファンをねぎらうのが通年の風物詩になっていた。
- ただ、CS敗退、Bクラス決定時に流すことを定番としていた勝負弱さを見せた過去とは違い、2023年はリーグ優勝、そして38年ぶりの悲願の日本一を達成したため、オマリーの圧倒的歌唱をオンエアで流すことに桑本はじめスタッフも戸惑いがあったようだ。
- しかし全国のあさスタ♪リスナーからの強いリクエストもあったようであり、2023年11月8日、午前10時過ぎに放送され、多方面から好意的反響を呼んでいる。
- ラジオ番組
- 1993年・1994年に、CM明けのジングル音声を担当(デーゲーム中継や阪神戦以外の試合も含む)。
- テレビ番組
- 選手引退後の1997年10月18日に出演(上岡龍太郎がゲストの回)。歌のコーナーで登場し、後述する阪神タイガースの球団歌「阪神タイガースの歌」(六甲おろし)を歌唱した[14]。
- 選手引退後の2018年5月6日に出演。野球対決での「レジェンド9」の1人として登場。
広告出演
- 阪神特命コーチ及び駐米スカウト時代(2003年 - 2009年)にテレビCM出演。阪神甲子園球場(同社運営)に駐車場がない事への告知および阪神電車での来場を促すCMであり、日本語(関西弁まじり)で「コウシエンキュウジョウニハ、チュウシャジョウハ、アリマヘーン(甲子園球場には、駐車場はありまへーん)。」「ハンシンデンシャガ、イチバンヤー(阪神電車が、一番やー)!」としゃべるCMだった。2007年・2008年は、当時阪神投手のライアン・ボーグルソンの夫人ニコール・ボーグルソンと共演した(ニコールが英語でしゃべり、それをオマリーが日本語訳する形式だった)。駐米スカウト契約解除により2009年度を以って降板。翌年からのCMは川藤幸三が引き継いだ。
CD
- ポリスターレコードから発売され6万枚を売り上げた。このCDに収録されている「六甲おろし」(CDでの曲名は「オマリーの六甲おろし」)があまりに音痴であるとして一部で注目を集め、ラジオ番組「コサキンDEワァオ!」(TBSラジオ)でも取り上げられた。また、朝日放送ラジオ『よなよな…』では阪神ファンの増田英彦(ますだおかだ)が出演する火曜日の放送で流していた[15]。1番の歌詞が日本語、2番の歌詞が英語である。
- また、引退後には先述のテレビ番組『LOVE LOVEあいしてる』にもゲストとして招かれ、生歌で六甲おろしを披露した。後日、吉田拓郎はこの回の演奏について「人生で一番音楽を辞めたくなった瞬間だった」と発言している。この場面は2022年7月21日に放送された同番組の最終回スペシャルでも放映された[16]。
- 2012年1月9日にNHK-FMで10時間にわたって放送された『セパ対抗!今日は一日“プロ野球ソング”三昧』でも紹介され、MVS(最優秀ソング)に選ばれた[17]。
- 2014年9月10日にデジタルリマスター復刻盤がリリースされた。
脚注
注釈
- ^ 後に自身が一軍へ定着し、パチョレック (P) と郭李 (K) の争いとなった際には「PK合戦」と報じられた。[1]
- ^ 現行の計算式になった1985年以降。
出典
関連項目
外部リンク
業績 |
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
---|
1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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|
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1950年代 |
- 1951 川上哲治, 野口明, 林義一
- 1952 飯島滋弥
- 1953 飯田徳治, 平井三郎, 堀井数男
- 1954 中西太, 山内和弘
- 1955 山内和弘, 西沢道夫
- 1956 森下正夫, 吉田義男
- 1957 大下弘, 宮本敏雄
- 1958 宮本敏雄, 中西太
- 1959 山内和弘, 中利夫
|
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1960年代 |
- 1960 森下整鎮, 金田正一, 張本勲
- 1961 広瀬叔功, 田宮謙次郎
- 1962 ブルーム, 張本勲
- 1963 近藤和彦, 王貞治, 古葉毅
- 1964 金田正一, J.マーシャル, J.スタンカ
- 1965 D.スペンサー, 高倉照幸, 江藤慎一
- 1966 広瀬叔功, 榎本喜八, 古葉竹識
- 1967 土井正博, 長池徳二, 大杉勝男
- 1968 江藤慎一, 柴田勲, 小池兼司
- 1969 土井正博, 船田和英
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1970年代 |
- 1970 長池徳二, 江夏豊, 遠井吾郎
- 1971 江夏豊, 長池徳二, 加藤秀司
- 1972 野村克也, 阪本敏三, 池田祥浩
- 1973 若松勉, 福本豊, 山崎裕之
- 1974 高井保弘, 福本豊, 張本勲
- 1975 山本浩二, 松原誠, 土井正博
- 1976 有藤道世, 門田博光, 吉田孝司
- 1977 若松勉, 野村克也, 王貞治
- 1978 A.ギャレット, 簑田浩二, 掛布雅之
- 1979 王貞治, B.マルカーノ, 山本浩二
|
---|
1980年代 |
- 1980 岡田彰布, 平野光泰, 江夏豊
- 1981 藤原満, 掛布雅之, 山倉和博
- 1982 福本豊, 柏原純一, 掛布雅之
- 1983 門田博光, 梨田昌崇, 落合博満
- 1984 簑田浩二, ブーマー, 江川卓
- 1985 高木豊, W.クロマティ, 松永浩美
- 1986 山本和範, 清原和博, 吉村禎章
- 1987 高沢秀昭, 石毛宏典, 清原和博
- 1988 ブーマー, 岡田彰布, 正田耕三
- 1989 村田兆治, 彦野利勝
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1990年代 |
- 1990 R.ブライアント, 清原和博
- 1991 古田敦也, 広沢克己
- 1992 石井浩郎, 古田敦也, 駒田徳広
- 1993 清原和博, T.オマリー
- 1994 秋山幸二, G.ブラッグス
- 1995 落合博満, 松井秀喜
- 1996 山本和範, 清原和博, 金本知憲
- 1997 松井稼頭央, 清原和博
- 1998 川上憲伸, 松井秀喜
- 1999 松井秀喜, R.ローズ, 新庄剛志
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2000年代 |
- 2000 R.ペタジーニ, 山﨑武司, 清原和博
- 2001 松井稼頭央, R.ペタジーニ, 中村紀洋
- 2002 G.アリアス, 的山哲也
- 2003 高橋由伸, 金本知憲
- 2004 松坂大輔, SHINJO
- 2005 金城龍彦, 前田智徳
- 2006 青木宣親, 藤本敦士
- 2007 A.ラミレス, 阿部慎之助
- 2008 山﨑武司, 荒木雅博
- 2009 青木宣親, 松中信彦
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2010年代 |
- 2010 阿部慎之助, 片岡易之
- 2011 畠山和洋, 中村剛也, 稲葉篤紀
- 2012 中村紀洋, 前田健太, 陽岱鋼
- 2013 澤村拓一, 新井貴浩, 内川聖一
- 2014 B.エルドレッド, 柳田悠岐
- 2015 藤浪晋太郎, 會澤翼
- 2016 筒香嘉智, 大谷翔平
- 2017 内川聖一, A.デスパイネ
- 2018 森友哉, 源田壮亮
- 2019 森友哉, 近本光司
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1967年から1984年までは最多出塁数。1985年以降は最高出塁率。 |
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注記
1981年から1988年まではNPB打撃タイトル 1989年から2000年まではセ・リーグ特別賞 2000年限りで廃止
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1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞 |
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